清澄の僧 従僧 鵜飼の老人 閻魔王

ワキ詞「是は安房の清澄より出でたる僧に て候。我いまだ甲斐の国を見ず候ふ程に。 此度甲斐の国行脚と志して候。サシ「行く すゑいつと白波の。安房の清澄立ちいで て。六浦のわたり鎌倉山。歌三人「やつれは てぬる旅姿。/\捨つる身なれば恥ぢら れず。一夜仮寝の草莚。鐘を枕の上に聞 く。都留の郡の朝立つも。日たけて越ゆ る山道を。過ぎて石和に。着きにけ り過ぎて石和に着きにけり。 シテ一セイ「鵜舟にともす篝火の。後の闇路を。 如何にせん。サシ「実にや世の中を。うしと 思はゞ捨つべきに。其心更に夏河に。鵜使

ふ事のおもしろさに。殺生をするはかな さよ。詞「伝へ聞く遊子伯陽は。月に誓つ て契をなし。夫婦二つの星となる。今の 雲の上人も。月なき夜半をこそ悲み給 ふに。我はそれには引きかへ。月の夜頃 を厭ひ。闇になる夜をよろこべば。歌「鵜 舟にともす篝火の。消えて闇こそかな しけれ。上歌「つたなかりける身の業 と。/\。今は先非を悔ゆれども。かひ も波間に鵜舟漕ぐ。これ程惜めども。か なはぬ命つがんとて。営む業の。物憂さ よ。いとなむ業のものうさよ。 シテ詞「いつもの如く御堂に上り鵜を休め

うずるにて候。や。是は往来の人の御入り 候ふよ。ワキ詞「さん候往来の僧にて候ふ が。里にて宿を借り候へば。禁制の由申 し候ふ程に。さてこの御堂に泊りて候。 シテ「実に/\里にて御宿参らせうずる者 は覚えず候。ワキ「さて御身は如何なる人 にてわたり候ふぞ。シテ「さん候これは鵜 使にて候ふが。いつも月の程はこの御堂 に休らひ。月入りて鵜を使ひ候。ワキ「さ ては苦しからぬ人にて候ふぞや。見申せ ばはや抜群に年たけ給ひて候ふが。かゝ る殺生の業勿体なく候。あはれ此業を御 とまりあつて。余の業にて身命を御つぎ 候へかし。シテ「仰も尤にて候へども。若 年より此業にて身命を助かり候ふ程に。 今更止まつゝべうもなく候。ワキツレ「如何に 申し候。この人を見て思ひ出したる事の 候。この二三ヶ年先に。此川下岩落と申 す所を通り候ひしに。かやうの鵜使に行

き逢ひ候ふ程に。科の中の殺生の由を申 して候へば。実にもとや思ひけん。我が 家に連れて帰り。一夜けしからず摂して 候ひしよ。シテ「さては其時の御僧にてわ たり候ふか。ワキツレ「さん候其時の僧にて 候。シテ「なう其鵜使こそ空しくなりて候 へ。ワキ「それは何故空しくなりて候ふ ぞ。シテ「恥かしながら此業にて空しくな りて候。其時の有様語つて聞かせ申し候 ふべし。後を弔うて御やり候へ。ワキ「心 得申し候。シテ語「抑此石和川と申すは。上 下三里が間は堅く殺生禁断の所なり。今 仰せ候ふ岩落辺に鵜使は多し。夜な/\ 此処に忍び上つて鵜を使ふ。憎き者のし わざかな。彼を見現はさんとたくみしに。 それをば夢にも知らずして。又或る夜忍 び上つて鵜を使ふ。ねらふ人々ばつとよ り一殺多生の理にまかせ。彼を殺せと言 ひあへり。其時左右の手を合はせ。かゝ

る殺生禁断の所とも知らず候。向後の事 をこそ心得候ふべけれとて。手を合はせ 歎き悲めども。助くる人も波の底に。ふ しづけにし給へば。叫べど声が出でばこ そ。詞「その鵜使の亡者にて候。ワキ「言語 道断の事にて候。さらば罪障懺悔に。業 力の鵜を使うて御見せ候へ。後をば懇 に弔ひ候ふべし。シテ「あら有難や 候。さらば業力の鵜を使うて御目にか け候ふべし。後を弔うて賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。 シテ「既に此夜も更け過ぎて。鵜使ふ頃に もなりしかば。いざ業力の鵜を使はん。 ワキ「これは他国の物語。死したる人の業 により。かく苦の憂き業を。今見る事の不 思議さよ。シテ詞「しめる松明ふり立てゝ。 ワキ「藤の衣の玉だすき。シテ詞「鵜籠を開き 取り出し。ワキ「島つ巣おろし荒鵜ども。 シテ詞「此河波にばつと放せば。地「おもし

ろの有様や。底にも見ゆる篝火に。驚く 魚を追ひまはし。かづき上げすくひあげ。 隙なく魚を食ふ時は。罪も報も。後の世 も忘れはてゝおもしろや。漲る水の淀な らば。生簀の鯉やのぼらん玉島河にあら ねども。小鮎さばしるせゞらぎに。かだ みて魚はよもためじ。不思議やな篝火の。 燃えても影の暗くなるは。思ひ出でたり。 月になりぬる悲しさよ。鵜舟のかゞり影 消えて。闇路に帰る此身の。名残をしさを 如何にせん名残をしさを如何にせん。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「河瀬の石を拾ひ上げ。/\。 妙なる法の御経を一石に一字。書きつけ て。波間に沈め弔はゞ。などかは浮まざ るべき/\。 後シテ早笛「夫れ地獄遠きにあらず。眼前の境 界。悪鬼外になし。抑かの者。若年の昔よ り。江河に漁つて其罪おびたゝし。され ば鉄札数を尽し。金紙をよごす事もなく。

無間の底に。詞「堕罪すべかつしを。一僧 一宿の功力に引かれ。急ぎ仏所に送らん と。悪鬼心を和らげて。鵜舟を弘誓の船 に為し。法華の御法の助舟。篝火も浮む けしきかな。地「迷の多き浮雲も。シテ「実 相の風あらく吹いて。地「千里が外も雲は れて。真如の月や出でぬらん。ロンギ地「有 難の御事や。奈落に沈む悪人を。仏所に送 り給ふなる。其瑞相のあらたさよ。シテ「法 華は利益深き故。魔道に沈む群類を救は ん為に来りたり。地「実に有難き誓かな。 妙の一字はさて如何に。シテ「それは褒美

の言葉にて。妙なる法と説かれたり。 地「経とはなどや名づくらん。シテ「それ。 聖教の。都名にて。地「二つもなく。シテ「三 つもなく。地「唯一乗の徳によりて。奈落 に沈みはてゝ。浮びがたき悪人の。仏果 を得ん事は此経の力ならずや。地「是を見 彼を聞く時は。/\。たとひ悪人なりと ても。慈悲の心を先として。僧会を供養 するならば。其結縁に引かれつゝ。仏果 菩提に到るべし。実に往来の利益こそ。 他を助くべき力なれ/\。