花若 安田荘司の妻 小沢刑部友房 望月秋長 望月従者

シテ「かやうに候ふ者は。近江の国守山の 宿甲屋の亭主にて候。扨も某本国は信濃

の国の者にて候ふが。さる子細候ひて此 甲屋の亭主となり。往来の旅人を留め申

して身命をつぎ候。今日も旅人の御通り 候はゞ。御宿を申さばやと存じ候。 ツレ子方次第「波の浮鳥住む程も。/\。した安 からぬ心かな。ツレサシ「これは信濃の国の住 人。安田の庄司友治の妻や子にて候。さ ても夫の友治は。同国の住人望月の秋長 に。あへなく討たれ給ひし後は。多かり し従類も散り%\になり。頼む木蔭も撫 子の。花若ひとり隠し置かんと。敵の所 縁の恐ろしさに。思子を伴ひ立ち出づる。 二人下歌「いづくとも定めぬ旅を信濃路や。月 を友寝の夢ばかり。/\。名残を忍ぶ古 里の。浅間の煙立ち迷ふ草の枕の夜寒な る。旅寝の床の憂き涙守山の宿に着きに けり守山の宿に着きにけり。 ツレ詞「急ぎ候ふ程に。近江の国守山の宿に 着きて候。此処にて宿を借らばやと思ひ 候。いかに此家の内へ案内申し候。シテ「誰 にてわたり候ぞ。女「これは信濃の国より

上る者にて候。一夜の宿を御かし候へ。 シテ「易き間の事にて候。此方へ御入り候 へ。不思議やなこれに留め申して候ふ御 方を。いかなる人ぞと存じて候へば。某 が古の主君の北 の御方。幼き人 は御子息花若殿 にて御座候ふは いかに。あら痛 はしの御有様や 候。頓て某と名 乗つて力を附け 申さばやと存じ 候。いかにお旅 人に申すべき事 の候。信濃の国よりと仰せ候ふにつきて。 古御目にかゝりたるやうに存じ候。女「いや これは行方もなき者にて候ふほどに。思 もよらぬ事にて候。シテ「何を御つゝみ候

ふぞ。先某名のつて聞かせ申すべし。これ こそ古御内に召し仕はれ候ひし。小沢の 刑部友房にて候へ。ツレ「さては古の小沢 の刑部友房か。あら懐しやとばかりにて。 涙にむせぶばかりなり。子方「父に逢ひた るこゝちして。花若小沢に取りつけば。 シテ「別れし主君の面影の。残るも今は怨 めしや。子方「こはそも夢か現かと。主従

手に手を取り交し。地上歌「今までは。行方 も知らぬ旅人の。/\。三世の契の主従 と。頼む情もこれなれやげに奇縁あるわ れらかな/\。シテ詞「あれなる一間に御入 りあつて御休あらうずるにて候。 ワキ次第「帰る嬉しき故里を。/\。誰憂き旅 と思ふらん。詞「これは信濃の国の住人。 望月の何某にて候。さても同国の住人。安 田の庄司友治と申す者を。某が手にかけ 生害させて候ふ科により。此十三年が間 在京仕り候ふ処に。されども緩怠なきよ し聞し召し開かれ。安堵の御教書を賜は り悦の色をなし。只今本国信濃に下向仕 り候。急ぎ候ふ間。近江の国守山の宿に着 きて候。今夜は此宿に泊らばやと存じ候。 いかに誰かある。狂言「御前に候。ワキ「今 夜は此宿にとまるべし。宿を取り候へ。 又存ずる子細のある間。某が名をば申す まじく候。狂言「畏つて候。いかに此家の主

の渡り候ふか。シテ「誰にて御座候ふぞ。 狂言「これは信濃の国へ御下向の御方にて 候。御宿を申され候へ。シテ「心得申し候。 さて御名字をば何と申す人にて御座候ふ ぞ。狂言「これは信濃の国に隠れもなき大 名。望月の秋長殿では御座ないぞ。シテ「苦 しからず候。此方へ御入り候へ。狂言「心 得申し候。いかに申し上げ候。此方へ御 通り候へ。 シテ「言語道断の事。我頼み申して候ふ人 の北の御方。同じく御子息花若殿此家に とゞめ申して候ふ所に。花若殿御親の敵。 望月が泊りて候ふ事は候。やがて此由申 し上げばやと存じ候。や。いかに申し候。 不思議なる事の候。今夜此処に望月が着 きて候。子方「何望月と申すか。シテ「暫 く。あたり近く候。まづ静まつて聞しめ され候へ。只今申す如く。望月が此家に 泊りて候。是は天の与ふる所と存じ候。

いかにもして今夜の中に。御本望達せさ せ参らせうずるにて候。御心やすく思し めされ候へ。きつと思案仕りたることの 候。今頃此宿にはやり候ふものは盲御前 にて候。何の苦しう候ふべき。夜にまぎれ 杖にすがり。花若殿に御手を引かれさせ 給ひ。盲の振舞にて座敷へ御出で候へ。 某彼の者に酒を勧め候ふべし。又何に ても候へ御謡ひあれと申し候はゞ。そと 御謡ひ候へ。花若殿は八撥を御打ちあら うずるにて候。某は獅子舞をまなび。其 まぎれに近づきて。本望を遂げさせ申さ うするにて候。ツレ「ともかくもよきやう に計らひてたまはり候へ。シテ「何事も某 に御任せ候へ。ツレ子方物着「。 ツレサシ「嬉しやな望みし事のかなふよと。盲 の姿に出で立てば。子方「習はぬ業も父の ため。女「竹の細杖つきつれて。地「彼の蝉 丸の古。/\。たどりたどるも遠近の。

道のほとりに迷ひしも。今の身の上も。 思はいかで劣るべき。かゝる憂き身の業 ながら。盲目の身の習。歌きこしめせや 旅人よ聞しめせや旅人。 シテ詞「いかに申すべき事の候。狂言「何事に て候ふぞ。シテ「此家の亭主にて候ふが。 めでたき御下向にて候ふ間。御祝の為に 酒を持たせて参りて候。然るべきやうに 御申し候へ。狂言「心得申し候。いかに申 し上げ候。此家の亭主御下向めでたきよ し申し候ひて。御樽を持たせ参りて候。 ワキ詞「此方へと申せ。狂言「畏つて候。此方 へ御参り候へ。又これなる人達はいかな る人にて候ふぞ。シテ「さん候是は此宿に 候ふ盲御前にて候。かやうの御旅人の御 着の時は。罷り出で謡などを申し候。御前 にてそと御うたはせ候へ。狂言「日本一の 事にて候。やがて申し上げうずるにて候。 いかに申し上げ候。ワキ「何事ぞ。狂言「あ

れに候ふは。此宿にある盲御前にて候ふ が。けしからず面白く謡ふ由を申し候。 謡はせられ候へ。ワキ「汝所望し候へ。 狂言「畏つて候。なうこれなる人たち。御所 望にて候ふぞ面白からんずる所を一節御 謡ひ候へ。ツレ「一万箱王が親の敵を討つ たる処をうたひ候ふべし。狂言「いや/\ 思も寄らぬことにて候。ワキ「何事を申す ぞ。狂言「これなる人達に謡を所望仕り候 へば。一万箱王が親の敵を討つたる所を謡 はうずるよし申され候ふ程に。御前にて はいかゞと存じいやと申して候。ワキ「何 の苦しう候ふべき急いで謡はせ候へ。 狂言「さらば今の仰せられたる所を御謡ひ 候へ。 ツレクリ「それ迦陵頻伽は卵の内にして声諸鳥 にすぐれ。地「鷙といふ鳥は小さけれど も。虎を害するちからあり。ツレサシ「こゝに 河津の三郎が子に。一万箱王とて。兄弟

の人のありけるが。地「五つや三つの頃か とよ。父を従弟に討たせつゝ。既に年ふ り日を重ね。七つ五つになりしかば。い とけなかりし心にも。父の敵を討たばや と。思の色に出づるこそ。げに哀には 覚ゆれ。クセ「ある時おとゞひは。持仏堂 に参りて。兄の一万香を焼き。花を仏に 供ずれば。弟の箱王は。本尊をつく%\ とまもりて。いかに兄御前きこしめせ。 本尊の名をば我が敵。工藤と申し奉り。 剣を堤げ縄を持ち。われらを睨みて。立 たせ給ふが憎ければ。走りかゝりて御首 をうち落さんと申せば。兄の一萬これを 聞きて。ツレ「いはげなや。いかなる事ぞ 仏をば。地「不動と申し敵をば。工藤とい ふを知らざるか。さては仏にてまします かと。抜いたる。刀を鞘にさし。宥させ 給へ南無仏。敵を討たせ給へや。 子方詞「いざ討たう。狂言「おう討たうとは。

シテ「暫く候。何事を御騒ぎ候ふぞ。狂言「御 用心の時分にて候ふに。是なる幼き者 がいざ討たうと申し候ふ程に候ふよ。 シテ「子細を御存じ候はぬ程に尤にて候。 此者の謡を申したる後にては。また幼き者 八撥を打ち候。其八撥を打たうずると申 す事にて候。狂言「日本一の事頓て打たせ うずるにて候。いかに申し上げ候。これ なる幼き者が八撥を打つべきよしを申し 候。ワキ「急いで打たせ候へ。又亭主は何 にても能はなきか。子方「獅子舞を御所望 候へ。ワキ「あら面白の事を申すものかな。 いかに亭主。是なる幼き者の申すは。亭 主は獅子舞が上手なる由を申し候。そと 一指舞ひ候へ。シテ「これは幼き者の条な き事を申し候。思もよらぬ事にて候。 ワキ「ひらに舞うて見せ候へ。シテ「此上は 御意にて候ふ程に。そと御前にて舞はう ずるにて候。此まゝにては如何にて候ふ

間。獅子頭を被きてまゐらうずるにて候。 其間にこの幼きものに八撥を打たせ候ふ べし。皆々かう渡り候へ。中入「。 地(謡掛)「獅子団乱旋は時を知る。雨叢雲や。 騒ぐらん。羯鼓「。乱序「。獅子舞「。 上「余りに秘曲の面白さに。/\。猶々め ぐる盃の。酔も勧めばいとゞ猶。眠もき たる。ばかりなり。 シテ「さる程に/\。地「折こそよしとて脱 ぎおく獅子頭。又は八撥打てや打てと。 目を引き袖を振り。立ち舞ふけしきに戯 れよりて。敵を手ごめにしたりけり。此 年月の怨の末。今こそ晴るれ望月よとて 思ふ敵を討つたりけり。キリ「かくて本望 遂げぬれば。/\。かの本領に立ち帰り。 子孫に伝へ今の世に。その名隠れぬ御事 は。弓矢のいはれなりけり/\。