天女 泰山府君

シテ詞「わが好ける心にあくがれて。青陽の 春の朝には。花山に入つて日を暮らし。 秋は龍田のもみぢ葉の。色に染み香にめ でて。情を四方にめぐらせば。心に洩 るゝ方もなし。然れども恨は花盛。三春 だに経ずして。唯一七日の間なり。余り に名残惜しく候へば。泰山府君の祭を執 り行ひ。花の命を延べばやと存じ候。 サシ「有難や治まる御代の習とて。何か望 は荒磯海の。浜の真砂の数々に。事を 尽すや栄花の家。地「花の命をのばへん と。/\。これも手向と夕露の。白木綿 懸けて咲く花の影明らかに春の夜の。月 の光も曇らじな。金銀珠玉色々の。花の 祭をなしにけり花の祭をなしにけり。

シテ一声「花におり立つ白雲の。嵐や空に。帰 るらん。サシ「天つ風雲の通路吹きとぢ よ。乙女の姿しばしだに。とゞめかねた る春の夜の。色香妙なり花盛。よそめに見 るさへ。面 白や。地「い ざ桜われも 散りなん一 盛。/\。 誘ふ嵐も心 して松に残 る薄雪の。 盛とも夕暮 の。月も曇 らぬ天の原。

霞の衣来て見れば。妙なる花の。気色か な妙なる花の気色かな。 シテ詞「あら面白の花盛やな。一枝手折り天 上へ帰らばやと思ひ候。宴やむで紅燭な ほ余れり。花一枝を手折らんと。忍び/\ に立ち寄れば。ワキ「春宵一時値千金。花 に清香月に影。見る目ひまなき花守の。 心は空になりやせん。シテ「折らばやの花

一枝に人知れぬ。我が通路の関守は。宵 宵ごとにうちも寝よ。ワキ「寝られんもの か下枕。花より外は夢もなし。シテ「実に 実に見れば木の本に。人を寄せじと花の 垣。ワキ「隔てぬ月の影ともに。シテ「花の 光の。ワキ「照り添ひて。地「中々木蔭はく らからねば。何と手折らん花心。月の夜 桜の影。あさまなり恥かしや。 ロンギ地「実に有難や此春の。/\。花の祭 の時過ぎば。今少しこそ松の風終には花 の跡とはん。シテ「今手折らずは一枝の。後 の七日を松の風。雪になり行く花ならば 跡とふとても由なし。地「よしや吉野の山 桜。こゝも千本の花の影。シテ「月も折し も春の夜の。地「霞の光。シテ「花の色。 地「何か今宵の。思ひ出ならぬさりなが ら。あはれ一枝を天の羽袖に手折りて。 月をもともに眺めばやの望は残れり此春 の望残れり。

シテ詞「あま りに月のさ やかにて。 手折るべき 便なければ。 徒に更くる 夜の間を待 ちつるに。 地「うれしや 月も入りた りや。/\ 梢は花に曇らねど。木の下闇に忍び寄り。 さしも妙なる花の枝手折りて行くや乙女 子が。天つ羽衣立ち重ね雲居遥に昇りけ り。雲居遥かに昇りけり。中入間「。 後シテ出端「そも/\これは。五道の冥官。泰 山府君なり。詞「我人間の定相を守り明闇 二つを守護する所に。上古にも聞かざり し。花の命を延べん為我を祭る。唯色

に染むひと花心に似たれども。よく/\ 思へば道理々々。煙霞跡を埋むでは花の 暮を惜み。祚国まさに身を捨てゝ。後の 春を待たず。詞「かゝる例もある花を。手 折れる者は何者ぞと通力を以てよく見る に。欲界色界無色界。化天夜魔天にても なく。らくてん下天の天人がこのはな手 折りつるか。地「山河草木震動して。虚

空に光り満ち満てり。シテ「天上清しと見る 所に。何ぞ偸盗の雲の上。地「天つ乙女の 羽衣の。花のかつらの春を待て。シテ「待 たじはや/\。地「花ひとときの栄花の 桜。シテ「かざしの花のたま/\なるに。 地「花実の種も中空の。天つ御空は雲晴れ て。らくてん下天天人忽ち現れたり。 天女の舞「天女はふたゝび天降り。/\。さし も心に懸けし花の。かつらもしぼむ涙の 雨より散りくる花を慕ひ行けば。シテ「天 上にてこそ栄花の桜。地「散れども枝に。 のこりの雪の。消えせしものを花の齢。 梵釈十王閻魔宮。五道の冥官泰山府君 の力を種の継木の桜。あつぱれ奇特の 花盛。働「。 シテ「通力自在の遍満なれば。地「通力自在 の遍満なれば。花の命は七日なれどもも とより鬼神に横道あらんや。花の梢に飛 び翔つて。嵐を防ぎ雨を漏らさず四方に

護る例を見せて。七日に限る桜の盛。三

七日まで残りけり。