弁慶太刀持 牛若 弁慶

シテ詞「これは西塔の傍に住む武蔵坊弁慶 にて候。われ宿願の子細あつて。五条 の天神へ。丑の時詣を仕り候。今日・満参{まんさん} にて候ふ程に。唯今参らばやと存じ候。い かに誰かある。トモ「御前に候。シテ「五条 の天神へ参らうずるにてあるぞ。その分

心得候へ。トモ「畏つて候。又申すべき事 の候。昨日五条の橋を通り候ふ所に。十 二三ばかりなる幼き者。小太刀にて斬つ て廻り候ふは。さながら・蝶鳥{てふとり}の如くなる 由申し候。先々今夜の御物詣は。思し召 し御止まりあれかしと存じ候。シテ「言語

道断の事を申す者かな。たとへば天魔鬼 神なりとも。大勢には適ふまじ。おつと り込めて討たざらん。トモ「おつとりこむ れば不思議にはづれ。・敵{かたき}を手元に寄せ付 けず。シテ「手近く寄れば。トモ「目にも。 シテ「見えず。地「・神変{じんべん}奇特不思議なる。 /\。・化生{けしやう}の者に寄せ合はせ。かしこう御 身討たすらん。都広しと申せども。これ 程の者あらじ。げに奇特なる者かな。 シテ詞「さあらば今夜は思ひ止まらうずる にてあるぞ。いや弁慶ほどの者の。聞き 遁げは無念なり。今夜夜更けば橋に行き。 化生の者を平らげんと。地上歌「夕程なく 暮方の。/\。雲の気色も引きかへて。 風すさまじく更くる夜を。遅しとこそは 待ち居たれ/\。中入早鼓間 子方一声「さても牛若は母の仰の重ければ。 詞「明けなぱ寺へのぼるべし。今宵ばかり の名残なれば。五条の橋に泣立ち出でて。

川波添へて立ち待ちに。月の光を待つべ しと。夕波の。気色はそれか夜嵐の。夕 程なき秋の風。地上歌「面白の気色やな。 /\。そゞろ浮き立つわが心。波も玉散 る白露の。夕顔の花の色。五条の橋の橋 板を。とゞろ/\と踏み鳴らし。音も静 かに更くる夜に。通る人をぞ待ち居た る/\。 後シテ詞一声「すでにこの夜も明方の。山塔の鐘 もすぎまの雲の。光り輝く月の夜に。着た る鎧は黒革の。をどしにをどせる大鎧。 草摺長に着なしつゝ。もとより好む大薙 刀。・真中{まんなか}取つて打ちかつぎ。ゆらり/\ と出でたる有様。いかなる天魔鬼神なり とも。・面{おもて}を向くべきやうあらじと。我が 身ながらも物頼もしうて。手に立つ敵の 恋しさよ。 子方「川風もはや更け過ぐる橋の面に。通 る人もなきぞとて。心すごげにやすらへ

ば。シテ「弁慶かくとも白波の。立ちより 渡る橋板を。さも荒らかに踏み鳴らせば。 子方「牛若彼を見るよりも。すはやうれし や人来るぞと。・薄衣{うすぎぬ}なほも引き被き。傍 に寄り添ひ佇めば。シテ「弁慶彼を見付 けつゝ。立廻り、詞をかけんと思へども。見 れば女の姿なり。われは出家の事なれば。 思ひ煩ひ過ぎて行く。子方「牛若彼をなぶ つて見んと。行き違ひざまに薙刀の。柄 元をはつしと蹴上ぐれば。シテ「すはしれ 者よもの見せんと。地「薙刀やがて取り直 し。/\。いでもの見せん手なみの程と。 斬つてかゝれば牛若は。少しも騒がず突 つ立ち直つて。薄衣引き除けつゝ。しづ しづと太刀抜き放つて。つつ支へたる薙 刀の。切先に太刀打ち合はせ。つめつ開い つ戦ひしが。何とかしたりけん。手許に 牛若寄るとぞ見えしがたゝみ重ねて打つ 太刀に。さしもの弁慶合はせ兼ねて。橋

桁を二三間しさつて。肝をぞ消したりけ る。あら物々しあれ程の。/\。・小姓{こしやう}一 人を斬ればとて。手並にいかで洩らすべ きと。薙刀柄長くおつ取りのべて。走り かゝつてちやうと切れば。そむけて右に。 飛びちがふ取り直して裾を。薙ぎ払へば。 跳りあがつて足もためず。宙を払へば・頭{かうべ} を地に付け。千々に戦ふ大薙刀。打ち落 されて力なく。組まんと寄れば切り払ふ すがらんとするも便なし。せん方なくて 弁慶は。希代なる・少人{せうじん}かなとて呆れはて てぞ立つたりける。 ロンギ「不思議や御身誰なれば。まだ・稚{いとけな}き姿 にて。かほどけなげにましますぞ。委し く名乗りおはしませ。子方「今は何をか包 むべき。我は源牛若。地「義朝の御子か。 子方「さて汝は。地「西塔の武蔵。弁慶なり。 互に名告り合ひ。/\。降参申さん御免 あれ少人の御事。われは出家。位も氏も

けなげさも。 よき・主{しう}なれば頼むなり。粗 忽にや思しめすらんさりながら。これ又 三世の奇縁の始。今より後は。・主従{しうじう}ぞ。

と。契約堅く申しつゝ。薄衣・被{かづ}かせ奉り 弁慶も薙刀打ちかついで。九条の御所へ ぞ参りける。