秦始皇帝 花陽夫人 荊軻 秦舞陽 大臣 官人

真ノ来序シテ「そも/\此咸陽宮と申すは。都 のまはり一万八千三百余里。地「内裏は地 より三里高く。雲を凌ぎて築きあげて。 鉄の築地方四十里。シテ「又は高さも百余 丈。雲路を渡る雁も。雁門なくては過 ぎがたし。地「内に三十六宮あり。真珠の 砂瑠璃の砂。黄金の砂を地には敷き。 シテ「長生不老の日月まで甍を並べておび たゞし。地「帝の御殿は阿房宮。銅の柱 三十六丈。シテ「東西九町。地「南北五町。

シテ「五丈の旗矛。地「りうしやの雲居。 シテ「さながら天に。地「飄り。地歌「のぼれ ば玉の階の。/\金銀を研きて輝けり。 たゞ日月の影を踏み蒼天をわたる心地し て。おの/\肝を消すとかや/\。 ワキ、ワキツレ二人 一声「思ひ立つ。朝の雪の旅衣。落 葉重なる嵐かな。ワキ「山遠うしては雲行 客の跡をうづみ。ワキツレ「松高うしては風旅 人の夢を破る。ワキ「たとひ轅門は高く とも。ツレ「思の末は。ワキ「石に立つ。

ワキ、ワキツレ二人 歌「弥猛の心あらはれて。/\。 遠山の雲に日を重ね。やう/\行けば名 も高き。咸陽宮に着きにけり。咸陽宮に 着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。咸陽官に着きて候。 まづ奏聞申さうずるにて候。如何に奏聞 申し候。燕の国の傍に。荊軻秦舞陽と 申す両人の者。高札のおもてに任せ。燕 の指図の箱。ならびに樊於期が頭を持 ちて。是まで参内申して候。狂言シカ%\ 大臣「何と申すぞ。燕の国の民に。荊軻秦 舞陽と申す両人の者。燕の指図の箱。なら びに樊於期がかうべを持ちて参内したる と申すか。かゝるめでたき事こそなけれ。 やがて奏聞申し候ふべし。いかに奏聞申 し候。燕の国の民に。荊軻秦舞陽と申す 両人の者。燕の指図の箱。ならびに樊於 期がかうべを持ちて只今参内申して候。 シテ「何と燕の国の傍に。荊軻秦舞陽と

申す両人の者。指図の箱。ならびに樊於 期がかうべを持ちて参内したると申す か。大臣「さん候。シテ「急いで参内させ候 へ。大臣「畏つて候。唯今のよしを奏聞申 してあれば。急いで参内させよとの宣旨 にてあるぞ。さりながら御大法の如く。 太刀刀を汝あづかり候へ。狂言「畏つて 候。如何に方々ヘ申し候。急いで御参内 あれとの御事にて候さりながら。御大 法の事にて候ふ間。面々の太刀刀をあづ かり申して参内させ申せとの御事にて候 ふぞ。太刀刀を賜はり候へ。ワキ「いかに 秦舞陽。太刀刀を参らせよと承り候ふ が。何と仕り候ふべき。ワキツレ「御大法に て候はゞ唯まゐらせられ候へ。ワキ「さら ば参らせうずるにて候。狂言シカ%\ ワキ「荊軻は佩剣を解いて威儀をなし。節 会の儀式に従ひて。雲上遥に見わたせ ば。ワキツレ「金銀珠玉の御階を踏み。三里が

間をのぼりゆけば。ワキ「薄氷を踏む心地 して。荊軻は既にのぼれども。ワキツレ「後に 立ちたる秦舞陽。身体わなゝき手を押し て。のぼり兼ねてぞ休らひける。 ワキ詞「あゝ不覚 なりとよ秦舞陽。 燕のいやしき住 居にならつて。 玉殿を踏む恐ろ しさに。臆して あがりかねける か。ワキツレ 詞「それを なさのみ諌め給 ひそ。其磧礫に 習つて玉淵を窺 はざるは。驪竜の蟠る所を知らず。 地「げに理とて典獄は。さしも厳しき禁 中に。轅門を解いてゆるしけり/\。 大臣「帝は之を聞しめし。臨時の節会を執

り行ひ。燕使の参内を待ち給ふ。ワキ「舞 陽荊軻は大床の。胡床に参着申しけり。 ワキツレ「まづ秦舞陽すゝみ出でて。樊於期が かうべを皇帝の。上覧にそなへ立ちのけ ば。大臣「帝は笑める御気色。御心も釈け て見え給ふ。ワキ詞「其時荊軻すゝみよつ て。燕の指図の箱の蓋を開き。上覧に供 へ立ちのけば。シテ詞「不思議やな箱の底に

剣の影。氷の如く見えければ。既に立去 り給はんとす。地「荊軻は期したる事なれ ば。御衣の袖にむんずと縋つて。剣を御 胸にさしあて奉りけり。ツレ「あさまし や聖人人にまみえずとは。今此時にてあ りけるぞや。あらあさましの御事やな。 シテ詞「いかに荊軻。秦舞陽もたしかに聞 け。我三千人の后を持つ。其中に花陽夫 人とて琴の上手あり。されば毎日おこた る事なし。然れども今日は汝等が参内に より。いまだ琴の音を聞かず。ことさら 今は最期なれば。片時の暇をくれよ。彼 の琴の音を聞いて。黄泉の道をも免れう ずると思ふは如何に。ワキ「いかに秦舞 陽。さて何とあるべきぞ。ツレ「これ程ま で手ごめ申す上は。片時の御暇ならば参 られ候ヘ。ワキ「さらば片時の御暇をまゐ らせうずるにて候。シテ「いかに花陽夫 人。急ぎ秘曲を奏し給へ。后琴ノ段「さらば

秘曲を奏すべし。本より妙なる琴の音に。 飛ぶ鳥も地に落ち武士も。やはらぐ程の 秘曲なれば。ましてや今は玉のを琴。 さこそは御手も尽されけめ。地「花の春の 琴曲は花風楽に柳花苑柳花苑の鴬はおな じ曲の囀。月の前の調は夜寒を告ぐる 秋風。雲居に渡れる雁琴柱におつる。 声々も涙の露の玉章。たまさかに。/\。 人はよもしら糸の。調を改めて。君きけ や君きけや。七尺の屏風は。躍らば越え つべし。羅穀の袂をも引かばなどか切れ ざらん。謀臣は。有無に酔へり群臣は。 聖人の。御たすけと。押し返し。/\。 二三返の琴の音を君は聞し召さるれども 荊軻は聞き知らでたゞ緩々と。侵されて。

眠れるが如くなり。時うつる/\と。秘 曲たび/\かさなれば。シテ「荊軻がひか へたる。地「御衣の袖を。引つ切つて。屏 風を躍りこえ。電光の激するよそほひ霰 の白玉盤に落ちて欄干をはしる心地し て。銅の御柱に。たちかくれさせ給ひしか ば。ワキ「荊軻は怒をなして。地「劔を帝に 投げ奉れば。番の医師は。薬の袋を劔に 合はせて投げとめければ。シテ「帝又劔を 抜いて。地「帝又劔を抜いて。荊軻をも秦 舞陽をも。八裂にさせ給ひ忽ちに失ひ おはしまし。其後燕丹太子をも。程なく 滅し秦の御代万歳をたもち給ふ事。唯こ れ后の琴の秘曲。ありがたかりける例 かな。