魏文帝臣下 従者 慈童

ワキ、ワキツレ二人次第「山より山の奥までも。/\。道あ るや時世なるらん。ワキ「これは・魏{ぎ}の・文帝{ぶんてい} に仕へ奉る・臣下{しんか}なり。さても我が君の・宣旨{せんじ} には。〓県山{大漢和:39753 麗+おおざと}の・麓{ふもと}より薬の水涌き出で たり。其・水上{みなかみ}を見て参れとの・宣旨{せんじ}を・蒙{かうむ}り。 唯今・山路{さんろ}に・赴{おもむ}き候。急ぎ候ふ程に。これ ははや・〓県山{れきけんざん}に着きて候。これに・庵{いほり}の見 えて候。先づこのあたりに・徘徊{はいくわい}し。事の 子細を・窺{うかゞ}はゞやと存じ候。 シテサシ「・夫{そ}れ・邯鄲{かんたん}の枕の夢。楽むこと・百年{もゝとせ}。 ・慈童{じとう}が枕は・古{いにしへ}の。・思寝{おもひね}なれば目もあは

ず。地「夢もなし。いつ楽を松が根の。 /\。嵐の・床{とこ}に・仮寝{かりね}して。枕の夢は夜も すがら身を知る袖はほされず。頼めにし。 かひこそなけれひとり寝の・枕詞{まくらことば}ぞ。・恨{うらみ} なる枕詞ぞ恨なる。 ワキ詞「不思議やな此・山中{さんちう}は。・虎狼{こらう}・野干{やかん}の・栖{すみか} なるに。これなる・庵{いほり}の内よりも。現れ出 づる姿を見れば。其様・化{け}したる人間なり。 如何なる者ぞ名をなのれ。シテ詞「・人倫{じんりん}・通{かよ}は ぬ処ならば。・其方{そなた}をこそ・化生{けしやう}の者とは申 すべけれ。これは・周{しう}の・穆王{ぼくわう}に召し仕はれ

し。・慈童{じどう}がなれる・果{はて}ぞとよ。ワキ「これは 不思議の・言事{いひごと}かな。誠しからず・周{しう}の代は。 既に・数代{すだい}のそのかみにて。王位も其・数{かず}移 り・来{き}ぬ。シテ「不思議や我はそのまゝに て。昨日や今日と思ひしに。次第に変 る・往昔{そのかみ}とは。さて・穆王{ぼくわう}の位は如何に。 ワキ「・今{いま}・魏{ぎ}の・文帝{ぶんてい}前後の間。・七百年{しちしやくねん}に及び たり。・非想{ひさう}・非々想{ひゝさう}は知らず人間に於て。 今まで生ける者あらじ。いかさま・化生{けしやう}の 者やらんと。身の・怪{あやし}めをぞ為しにける。 シテ「いやなほも・其方{そなた}こそ。・化生{けしやう}の者とは 申すべけれ。忝なくも・帝{みかど}の御枕に。・二句{にく} の・偈{げ}を書き添へ賜はりたり。立ち寄り枕 を御覧ぜよ。ワキ「これは不思議の事なり と。・各{おの/\}立ち寄り読みて見れば。シテ「枕 の・要文{えうもん}・疑{うたがひ}なく。シテワキ二人「・具一切功徳慈眼視衆生{ぐいつさいくどくじげんじしゆじやう}。 ・福寿海無量是故応頂礼{ふくじゆかいむりやうぜこおうちやうらい}。地「此・妙文{めうもん} を菊の葉に。置く・滴{したゞり}や露の身の。不 老不死の薬となつて七百歳を送りぬる。

・汲{く}む人も汲まざるも。・延{の}ぶるや・千年{ちとせ}なる らん。おもしろの・遊舞{いうぶ}やな。楽。 シテ「ありがたの・妙文{めうもん}やな。地「すなはち此 ・文菊{ぶんきく}の葉に。/\。悉く現る。さればに や。・雫{しづく}も・芳{かうば}しく・滴{したゞり}も匂ひ。淵ともなる や。谷陰の水の。処は・〓県{れきけん}の山の・滴{したゞり}。菊 水の・流{ながれ}。泉はもとより酒なれば。酌みて は勧め。掬ひては施し。我が身も飲むな り飲むなりや。月は宵の・間{ま}其身も・酔{ゑひ}に。 引かれてよろ/\/\/\と。たゞよひ 寄りて。枕を取り上げ戴き奉り。実にも 有難き君の・聖徳{せいとく}と・岩根{いはね}の菊を。・手折{たを}り伏

せ手折り伏せ。・敷妙{しきたへ}の袖枕。花を・筵{むしろ}に・臥{ふ} したりけり。シテ「もとより薬の酒なれ ば。地「もとより薬の酒なれば。・酔{ゑひ}にも・侵{をか} されず其身も変らぬ。七百歳を。保ち ぬるも。此御枕の故なれば。いかにも久 しき・千秋{せんしう}の・帝{みかど}。・万歳{ばんせい}の我が君と祈る・慈童{じどう} が七百歳を。我が君に・授{さづ}け置き。所は・〓県{れきけん} の。・山路{やまぢ}の・菊水{きくすゐ}。汲めや・掬{むす}べや飲むと も飲むとも尽きせじや尽きせじと。菊か き分けて。・山路{やまぢ}の仙家に。そのまゝ慈童 は。・入{い}りにけり。