箱崎領主 そんし、そいう 祖慶官人

ワキ詞「かやうに候ふ者は。九州箱崎の何某

にて候。さても一年唐土と日本の船の争

あつて。日本の船をば唐土にとゞめ。唐 土の船をば日本にとゞめ置きて候。某も 船を一艘とゞめ置きて候。其船に祖慶官 人と申す者を止め置きて候ふが。早十三 回に成り候。某は牛馬をあまた持ちて候 ふ程に。彼の祖慶官人に申しつけ野飼を させ候。今日も申しつけばやと存じ候。 唐子二人一セイ「唐土船の楫枕夢路ほどなき。名残 かな。ソンシ、サシ「これは唐土明州の津に。そん しそいうと申す兄弟の者なり。二人「さて も我父官人は一年日本の賊船にとらは れ。昨日今日とは思へども。十三回に早 なりぬ。余りに父の恋しさに。いまだ此 世にましまさば。今一度対面申さんと。 下歌「思ひ立つ日を吉日と船の。纜解き始 め。上歌「明州河を押し渡り。/\。海漫 漫と漕ぎ行けば。はや日の本もほの見え て。心つくしの果にある忍びし妻を松浦 潟。波路はるかに行く程に。名にのみ聞

きし筑紫路や箱崎に早く着きにけり箱崎 に早く着きにけり。狂言シカ%\ ワキ詞「唐土の人のわたり候ふか。ソンシ詞「これ に候。祖慶官人いまだ存生にて。箱崎殿 に召し使はれ候ふ由承り候ふ程に。数の 宝に代へ連れて帰国仕るべき為に。唯今 此処に渡りて候。ワキ「さん候。祖慶官人 は未だ存生にて候。唯今物詣とて御出で 候。暫くそれに御待ち候へ。御帰り候は ば引き合はせ申し候ふべし。ソンシ「さら ばこれに待ち申さうずるにて候。 シテサシ、一声「いかにあれなる童ども。野飼 の牛を集めつゝ。早々家路に急ぐべし。 日本子二人「かゝる業こそ物うけれ。シテ「よし我 のみか天の原。一セイ七夕の。たとへにも 似ぬ身のわざの。三人「牛牽く星の。名 ぞしるき。日本子二人「秋咲く花の野飼こそ。 三人「老の心の。慰なれ。 シテ「これは唐土明州の津に。祖慶官人と

申す者なり。詞我はからざるに日本に渡 り。牛馬をあつかひ草刈笛の。高麗唐土 をば名にのみ聞きて過ぎし身の。あら故 郷恋しや。詞かくて年月を送る程に二人 の子を持つ。又唐土にも二人の子あり。

彼等が事を思ふ時は。それも恋しく又 これもいとほしゝ。一方ならぬ箱崎の。 二人の子供なかりせば。下歌「老木の松は 雪折れて此身の果は如何ならん。地上歌「あ れを見よ。野飼の牛の声々に。/\。子 故に物や。思ふらん。況んや人倫に於て をや我が身ながらも愚なり我が身ながら も愚なり。いざや家路に帰らん/\。 ロンギ日本子二人「如何に父御よ聞しめせ。さて 住み給ふ唐土に。牛馬をば飼ふやらん御 物語り候へ。シテ「なか/\なれや唐土の。 華山には馬を放し。桃林に牛をつなぐこ れ花の名所なり。日本子二人「さて唐土と日の本 はいづれまさりの国やらん。委しく語り 給へや。シテ「愚なりとよ唐土に。日の本 をたとふれば。唯今尉が牽いて行く。九 牛が一毛よ。日本子二人「さほど楽しむ国なら ば。痛はしやさこそ実に。恋しく思し召 すらめ。シテ「いやとよ方々を。儲けて後

は唐衣。帰国の事も思はずと。地「語り慰 み行く程に。嵐の音の少なきは松原や末 になりぬらん箱崎に早く着きにけり箱崎 に早く着きにけり。 ワキ詞「いかに祖慶官人。何とて遅く帰りて あるぞ。シテ「さん候余りに多き牛馬に て御座候ふ程に。さて遅く罷り帰りて候。 ワキ「尤もにて候。又尋ぬべき事の候隠さ ず申すべきか。シテ「これは今めかしき事 を承り候ふものかな。何事にてもあれ申 し上げうずるにて候。ワキ「さておことは 唐土に二人の子を持ちてあるか。シテ「さ ん候子を二人持ちて候。ワキ「其名をそ んしそいうと申すか。シテ「あら不思議 や。何とて知しめされて候ふぞさやう に申し候。ワキ「そんしそいう。汝未だ存 生の由を聞き。数の宝に代ヘ連れて帰 国すべき為に。只今此処に渡りて候。 シテ「これは思ひもよらぬ事にて候ふもの

かな。さて其船はいづくに御座候ふぞ。 ワキ「此方へ来り候へ。あれに繋かりたる 船こそ。彼の両人の船にて候へ。シテ「実 にこれは某が船にて候。ワキ「さちば対面 し候へ。シテ「余りに見苦しく候ふ程に。 引き繕ひて賜はり候へ。ワキ「心得申し 候。物着、シテ詞「やあいかにあれなるは唐土 にとゞめ置きたる二人の者か。唐子二人「さん 候童名そんしそいうなり。シテ「これは 夢かや夢ならば。唐子二人「処は箱崎。シテ「明 けやせん。地「春宵一刻其値。千金も何 ならず子ほどの宝よもあらじ。唐土は心 なき。夷の国と聞きつるに。かほどの孝 子ありけるよと日本人も随喜せり。尊と や箱崎の。神も納受し給ふか。 ソンシ詞「如何に申し候。追風が下りて候ふ急 ぎ御船に召され候へ。シテ「いかに箱崎殿 ヘ申し候。追風がおりて候ふ程に船に乗 れと申し候。御暇申し候ふべし。ワキ「め

でたうやがて御帰国候へ。日本子二人「あら悲し や我等をも連れて御出で候へ。シテ「げに げに出船の習とてはたと忘れてあるぞ此 方へ来り候へ。ワキ「暫く。祖慶官人の事 は力なき事。此幼き者どもは。此所にて 生まれ相続の者にて候ふ程に。いつまで も某召し使はうずるにてあるぞ。此方ヘ 来り候へ。日本子二人「あら情なの御事や。大和 撫子の花だにも。同じ種とて唐土の。唐 紅に咲く物を。薄くも濃くも花は花。 情なくこそ候へとよ。 唐子二人「時刻うつりて叫ふまじ。急ぎ御船に 召されよと。はや纜をとく/\と。 シテ「呼ぶ子もあれば。日本子二人「取リ留むる。 シテ「中にとゞまる。唐子「父ひとり。地「た づきも知らず泣き居たり。身もがな二つ 箱崎の恨めしの心づくしや。たとへば親。 の子を思ふ事。人倫に限らず。焼野の雉夜 の鶴。梁の燕も皆子故こそ物思へ。

クセ「況んや我らさなきだに。明日をも知 らぬ老の身の。子故に消えん命は何なか なかに惜からじと。シテ「今は思へばとに かくに。地「船にも乗るまじ留まるまじ と。巌にあがりて十念し既に憂き身を投 げんとす。唐土や日の本の。子供は左右 に取りつきて。これを如何にと悲しめ ば。さすが心もよわ/\となり行く事ぞ 悲しき。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。物のあはれ を知らざるは。唯木石に異ならず。殊更 出船の障なれば。はや/\暇とらする ぞ。とく/\帰国を急ぐべし。シテ詞「余り の事の不思議さに。更に誠と思はれず。 ワキ「こはそも何の疑ぞや。当社八幡も 御知見あれ。偽更にあるべからず。と く/\船に乗り給へ。シテ「これは誠か。 ワキ「なか/\に。地「ありがたの御事や。 誠に諸天納受して。此子を我等に。与ヘ

給ふか有難や。斯くて余りのうれしさに。 時刻を移さず。暇申して唐人は。船に取 り乗り押し出す。悦の余りにや。楽を奏 し舟子ども。棹のさす手も舞の袖。をりか ら波の鼓の舞楽につれて面白や。楽 地キリ「陸には舞楽に乗じつゝ。/\。名残

おしてる海面遠く。なりゆくまゝに。招 くも追風。船には舞の。袖の羽風も。追 風とやならん。帆を引きつれて。舟子ど も。帆を引きつれて。舟子どもは。悦び 勇みて。唐土さしてぞ。急ぎける。