紀貫之 従者 蟻通明神

ワキ、ワキツレ二人次第「和歌の心を道として。/\。玉 津島に参らん。ワキ詞「これは紀の貫之にて 候。我和歌の道に交はるといへども。い まだ住吉玉津島に参らず候ふ程に。唯今 思ひ立ち紀の路の旅にと志し候。道行三人「夢 に寝て。現に出づる旅枕。/\。夜の関 戸の明暮に都の空の月影を。さこそと思 ひやる方も雲井は跡に隔たり暮れ渡る空 に聞ゆるは里近げなる鐘の声里近げなる 鐘の声。 ワキ詞「あら笑止や。俄に日暮れ大雨降り て。しかも乗りたち駒さへ伏して。前後 をわきまへず候ふは如何に。灯暗うし ては数行虞氏か涙の雨の。足をも引かず 騅行かず。愚意如何すべき便もなし。あ

ら笑止や候。 シテサシアシラヒ出「瀟湘の夜の雨しきりに降つて。 遠寺の鐘の声も聞えず。何となく宮寺は。 深夜の鐘の声。御灯の光なんどにこそ。 神さび心も澄み渡るに。社頭を見れば灯 もなく。すゞしめの声も聞えず。神は宜 禰が習はしとこそ申すに。宮守一人もな き事よ。よし/\御灯は暗くとも。和光

の影はよも暗からじ。あら無沙汰の宮守 どもや。 ワキ詞「なう/\其火の光について申すべ き事の候。シテ詞「此あたりには御宿もな し。今すこし先ヘ御通あれ。ワキ「今の暗 さに行く先も見えず。しかも乗りたる駒 さへ伏して。前後を忘じてさふらふな り。シテ「さて下馬は渡もなかりけるか。 ワキ「そもや下馬とは心得ず。こゝは馬上 のなき所か。シテ「あら勿体なの御事や。 蟻通の明神とて。物とがめし給ふ御神の。 かくぞと知りて馬上あらば。よも御命は 候ふべき。ワキ「これは不思議の御事か な。さて御社は。シテ「此森の中。ワキ「実 にも姿は宮人の。シテ「ともしの光の影よ り見れば。ワキ「実にも官居は。シテ「蟻通 の地「神の鳥居の二柱。立つ雲透に。見 ればかたじけなや。実にも社壇の有りけ るぞ。馬上に折り残す。江北の柳蔭の。

糸もて繋ぐ駒。かくとも知らで神前を恐 れざるこそはかなけれ恐れざるこそはか なけれ。 シテ詞「さて御身は如何なる人にて渡り候 ふぞ。ワキ詞「これは紀の貫之にて候ふが。 住吉玉津島に参り候。シテ「貫之にてまし まさば。歌を詠うで神慮に御手向け候へ。 ワキ「これは仰にて候へども。それは得た らん人にこそあれ。われらが今の言葉の 末。いかで神慮に叶ふべきと。思ひなが らも言の葉の。末を心に念願し。雨雲の 立ち重なれる夜半なれば。ありとほしと も思ふべきかは。シテ「雨雲の立ち重なれ る夜半なれば。ありとほしとも思ふべき かは。面白し/\。我等かなはぬ耳にだ に。おもしろしと思ふこの歌を。などか 納受なかるべき。ワキ「心に知らぬ科なれ ば。何か神慮に背くべきと。シテ「万の言 葉は雨雲の。ワキ「立ち重なりて暗き夜な

れば。シテ「ありと星とも思ふべきかはと は。あら面白の御歌や。地「凡そ歌には六 義あり。これ六道の巷に定め置いて六つ の色を見するなり。地「されば和歌のこと わざは。神代よりも始まり。今人倫に普 し。誰かこれをほめざらん。中にも貫之 は。御書所を承りて。古今までの歌の品 を撰びて。喜をのべし君が代の直なる 道を現せり。クセ「およそ思つて見れば歌 の心すなほなるは。これ以て私なし。人 代に及んで。甚だ起る風俗。長歌短歌旋 頭混本の類これなり。雑体一つにあらざ れば。源流漸く繁る木の花のうちの鴬ま た秋の蝉の吟の声いづれか和歌の数なら ぬ。されば今の歌。我が邪をなさゞれ ば。などかは神も納受の。心に叶ふ宮人 も。シテ「かゝる奇特に逢坂の。地「関の清 水に影見ゆる。月毛の此駒を。引き立て 見れば不思議やな。もとの如くに歩み行

く。越鳥南枝に巣をかけ胡馬北風にいば えたり。歌に和らぐ神心。誰か神慮のま ことを仰がざるべき。 ワキ詞「宮人にてましまさば。祝詞を読うで 神慮をすゞしめ御申し候へ。シテ詞「承り 候。いで/\祝詞を申さんと。神の白木 綿かけまくも。ワキ「おなじ手向と木綿花 の。シテ「雪を散らして。ワキ「再拝す。 シテ「謹上再拝。敬つて白す神司。八人の 八乙女。五人の神楽男。雪の袖を返し。 白木綿花を捧げつゝ。神慮をすゞしめ奉 る。御神託にまかせて。猶も神忠を致さ ん。有難や。そも/\神慮をすゞしむる 事。和歌よりも宜しきはなし。其中にも 神楽を奏し乙女の袖。返す%\も面白や な。神の岩戸のいにしへの袖。思ひ出で られて。立廻「和光同塵は結縁のはじめ。 ワキ「八相成道は利物の終。シテ「神の代七 代。ワキ「すなほの人あつうして。シテ「情欲

分つ事なし。地「天地開け始まりしより。 舞歌の道こそすなほなれ。 シテ「今貫之が言葉の末の。地「今貫之が。 言葉の末の。妙なる心を感ずる故に。仮 に姿を見ゆるぞとて。鳥井の笠木に立ち

隠れ。あれはそれかと。見しまゝにてか き消すやうに失せにけり。貫之もこれを 悦の。名残の神楽夜は明けて旅立つ空 に立ち帰る旅立つ空に立ち帰る。