幸菊丸 度会某 里人

ツレ次第「雪三越路の白山は。/\。夏かげい づくなるらん。詞「斯様に候ふ者は。加賀

の国白山の麓に住まひする者にて候。さ ても此程いづくの者とも知らぬ男神子の

来り候ふが。小弓に短冊を付け歌占を引 き候ふが。けしからず正しき由を申し候 ふ程に。今日罷り出で占をひかばやと存 じ候。いかに渡り候ふか。歌占の御所望 にて候はゞ御供申さうずるにて候。 シテ一セイ「神心。種とこそなれ歌占の。ひくも 白木の。手束弓。サシ「それ歌は天地開け し始より。陰陽の二神天の街?にゆきあひ の。さよの手枕結びさだめし。世をまな び国を治めて。今も道ある妙文たり。 下歌「占とはせ給へや歌占とはせ給へや。 上歌「神風や。伊勢の浜荻名をかへて。 /\。よしといふもあしといふも。同じ 草なりと聞く物を。処は伊勢の神子なり と。難波の事もとひ給へ。人ごころ。ひ けば引かるゝ梓弓。伊勢や日向の事もと ひ給へ日向の事も問ひ給へ。 ツレ詞「いかに申すべき事の候。シテ「何事に て候ぞ。ツレ「扨御身は何処の人にて渡

り候ふぞ。見申せば若き人にて候ふが。何 とて白髪とはなり給ひて候ふぞ。シテ「げ に/\普く人の御不審にて候。これは伊 勢の国二見の浦の神職なるが。われ一見 の為に国々を廻る。ある時俄に頓死す。 又三日と申すによみがへる。それより斯 様に白髪となりて候。是も神の御咎と存 じ候ふ程に。当年中に帰国すべきとおこ たりを申して候。ツレ「扨は其謂にて候 ふな。さらば歌占を引き申し候ふべし。 シテ「易き間の事。一番に手に当たりたる短 冊の歌を遊ばされ候へ。考えて参らせ候 ふべし。ツレ「承り候。教にまかせ短冊を 取り上げ見れば。何々北は黄に。南は青 く東白。西くれなゐのそめいろの山。斯様 に見えて候。シテ「須弥山を詠みたる歌に て候。是は父の事を御尋ね候ふな。ツレ「さ ん候親にて候ふ者此程所労仕り候ふ間。 生死の境を尋ね申し候。シテ「心得申し候。

委しう判じて聞かせ申さう。それ今度の 所労を尋ぬるに。辺涯一片の風より起つ て。水金二輪の重結に現る。それ須弥は 金輪より長じて。其丈十六万由旬の勢。 四州常楽の波に浮み。金銀碧瑠璃玻球迦 宝の影。五重色 空の雲に映る。 されば須弥の影 映るによつて。 南瞻部州の草木 緑なりといへり。 さてこそ南は青 しとはよみたれ。 こゝに父の恩の 高き事。高山千丈の雲も及び難し。さ れば父は山。そめいろとは風病の身色。 しかも生老病死の次第を取れば。西く れなゐと見えたるは。命期六爻の滅色な れば。あうこれは既に難儀の所労なれど

も。こゝに又染色とは。声を借りたる色 どりにて。文字には蘇命路なり。よみが へる命の路と書きたれば。まことに命期 の路なれども。又蘇命路に却来して。ふ たゝびこゝに蘇生の寿命の。種となるべき 歌占の詞。たのもしく思しめされ候へ。 ツレ詞「あら嬉しや。扨は苦しかるまじく候 ふか。シテ「なか/\の事御心安く思しめ され候へ。ツレ「近頃祝着申して候。又こ れなる幼き人も占の所望にて候。シテ「扨

はお事も占の所望にて候ふか。以前の如 く一番に手に当りたる短冊の歌を御読み 候へ。子方「鴬のかひこの中の子規。しが 父に似てしが父に似ず。シテ「これも父の 事を御尋ね候ふな。子「さん候父を失ひて 尋ね申し候。シテ「是ははや逢ひたる占に て候ふ物を。子「いや逢はねばこそ尋ね申 し候へ。シテ「さりとては占に偽よもあら じ。鴬にあふ言葉の縁あり。又卵の中の 子規とも云へり。時も卯月程時も合ひに 合ひたり。や。今啼くは子規にて候ふか。 子方「さん候子規にて候。シテ「おもしろし /\。当面黄舌の囀。鴬のこは子なり けり子なりけり。不思議や御身はいづく の人ぞ。子方「伊勢の国の者。シテ「在所は。 子方「二見の浦。シテ「父の名字は。子方「二 見の太夫度会の何某。シテ「さて其父は。 子方「わかれて今年八箇年。シテ「さておこ との幼名は。子方「幸菊丸と申すなり。

シテ「こはそも神の引合か。これこそ父の なにがしよ。子方「不思議や父にてましま すかと。云はんとすれば白髪の。シテ「身 は白雪の面忘れ。子方「されども見れば我 が父の。シテ「子は子なりけり。子方「子規 の。地「程へて今ぞ廻り逢ふ。占も合ひた り親と子の。二見のうらかたの。正しき 親子なりけるぞ。げにや君が住む。越の 白山知らねども。古りにし人の行くへと て。四鳥の別親と子に。二たび逢ふぞ不 思議なる/\。 ツレ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。さ ては御子息にて候ふか。シテ詞「さん候疑 もなき我が子にて候。これも神の御引合 と存じ候ふ程に。やがて伴ひ帰国せうず るにて候。ツレ「近頃めでたき御事にて候 ふものかな。又人の申され候ふは。地獄の 有様を曲舞に作りて御謡ひある由承り及 びて候。とてもの事に謡うて御聞かせ候

へ。シテ「易き御事にて候へども。此一曲 を狂言すれば。神気が添うて現なくなり 候へども。よし/\帰国の事なれば。面 面名残の一曲に。現なき有様見せ申さん。 地次第「月の夕の浮雲は。/\後の世の迷 なるべし。シテ「昨日もいたづらに過ぎ。 今日も空しく暮れなんとす。地「無常の虎 の声肝に銘じ。雪山の鳥啼いて。思を傷 ましむ。シテサシ「一生は唯夢の如し。誰か百 年の齢を期せん。地「万事は皆空し。何れ か常住の思をなさん。シテ「命は水上の 泡。地「風にしたがつてへめぐるが如し。 シテ「魂は籠中の鳥の。地「開くを待ちて去 るに同じ。消ゆるものは二たび見えず。 去るものは。重ねて来らず。クセ「須臾に 生滅し。刹那に離散す恨めしきかなや。 釈迦大士の慇懃の教を忘れ。悲しきかな や。閻魔法王の。呵責の詞を聞く。名利 身を扶くれども。未だ。北〓{新字源:8409、亡におおざと}の煙を免れ

ず。恩愛心を悩ませども。誰か黄泉の責 に随はざる。これがために馳走す。所得 いくばくの利ぞやこれに依つて追求す。 所作多罪なり。暫く目を塞いで。往事を 思へば。旧遊皆亡ず。指を折つて。故人 を数ふれば。親疎多くかくれぬ。時移り 事去つて。今なんぞ。渺茫たらんや人留 まりわれ往く。誰か又常ならん。シテ「三 界無安猶如火宅。地「天仙尚し死苦の身な り。況んや下劣。貧賎の報においてをや。 などか其罪かろからん死に苦を受け重ね 業に悲しみ猶添ふる。斬鎚地獄の苦は。 舂中にて身を斬る事截断して。血狼藉た り。一日の其うちに。万死万生たり。剣 樹地獄の苦は。手に剣の樹をよどれば。 百節零落す。足に刀山踏むときは。けん じゅ共に解すとかや。石割地獄の苦は。 両崖の大石もろ/\の。罪人を砕く次の 火盆地獄は。かうべに火焔を戴けば。百

節の骨頭より。焔々たる火を出す。ある 時は。焦熱大焦熱の。焔に咽びある時は 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢられ。鉄杖頭を 砕き。火燥足裏を焼く。シテ「飢ゑては。 鉄丸を呑み。地「渇しては。銅汁を飲むと かや。地獄の苦は無量なり餓鬼の。苦も 無辺なり。畜生修羅の悲も。われらにい かで優るべき。身より出せる科なれば。 心の鬼の身を責めて。かように苦をば受 くるなり。月の夕の浮雲は。後の世の迷 なるべし。 シテ「後の世の。闇をば何と。照すらん。 地「胸の鏡よ心濁すな。シテ詞「あら悲しや 唯今参りて候ふに。これ程はなどやお責 あるぞ。あら悲しや/\。ツレ「不思議や な又彼の人の神気とて。面色変りさも現 なきその有様。シテ「五体さながら苦しめ て。ツレ「白髪は乱れ逆髪の。シテ「雪を散 らせる如くにて。ツレ「天に叫び。シテ「地

に倒れて。地「神風の一もみ揉んで。/\。 時しも卯の花朽だしの五月雨も降るやと ばかり。面には。白汗を流して袂には。 露の繁玉。時ならぬ霰玉散る。足踏はと う/\と。手の舞笏拍子。打つ音は窓 の雨の。震ひ戦き立ちつ居つ肝胆を砕き 神の怠申し上ぐると見えつるが。神は 上らせ給ひぬとて。茫々と。狂ひさめて。 いざや我が子ようち連れて。思ふ伊勢路 の古里に又も帰りなば二見の浦。又も帰 らば二見の。浦千鳥友よびて伊勢の国へ ぞ帰りける伊勢の国へぞ帰りける。