花月

ワキ次第「風に任する浮雲の。/\。とまりは いづくなるらん。ワキ詞「是は筑紫彦山の麓

に住居する僧にて候。われ俗にて候ひし 時。子を一人持ちて候ふを。七歳と申し

し春の頃。何処ともなく失ひて候ふ程に。 これを出離の縁と思ひ。かやうの姿とな りて諸国を修行仕り候。道行「生れぬ先の 身を知れば。/\。憐れむべき親もなし。 親のなければ我が為に。心を留むる子も なし。千里を行くも遠からず。野に臥し山 にとまる身のこれぞ真の住家なる/\。 詞「急ぎ候ふ程に。是ははや花の都に着き て候。まづ承り及びたる清水に参り。花 をも眺めばやと思ひ候。 狂言「定めて今日は清水へ御参なきことは あるまじく候。御供申し彼の人に見せ申 し候。 シテ「そも/\これは花月と申す者なり。 或人我が名を尋ねしに答へて曰く。月は 常住にしていふに及ばず。さてくわの字 はと問へば。春は花夏は瓜。秋は菓冬は 火。因果の果をば末後まで。一句のため に残すといへば。人これを聞いて。地「さ

ては末世の香象なりとて。天下に隠もな き。花月とわれを申すなり。狂言「なにと て今までは遅く御出で候ふぞ。シテ「さん 候今まで雲居寺に候ひしが。花に心を 引く弓の。春の遊の友達と。中たがはじ とて参りたり。狂言「さらばいつもの如く に歌を謡ひて御遊び候へ。シテ小謡「こしかた より。地「今の世までも絶えせぬものは。 恋といへるくせもの。げに恋はくせもの。 くせものかな。身はさら/\/\。さら さら/\に。恋こそ寝られね。 狂言「あれ御覧候へ鴬が花を散らし候ふよ。 シテ詞「げに/\鴬が花を散らし候ふよ。 某射ておとし候はん。狂言「急いで遊ばし 候へ。シテ「鴬の花踏み散らす細脛を。大 薙刀もあらばこそ。花月が身に敵のなけ れば。太刀刀は持たず。花は的射んがた め。又かゝる落花狼藉の小鳥をも。射て 落さんがためぞかし。異国の養由は。百

歩に柳の葉をたれ。百に百矢を射るに外 さず。われまたは花の梢の鴬を。射て落 さんと思ふ心は。その養由にも劣るまじ。 あらおもしろや。地「それは柳これは桜。 それは雁がねこれは鴬。それは養由これ は花月。名こそはるとも。弓に隔はよ もあらじいでもの見せん鴬。いでもの見 せん鴬とて。履いたる足駄を踏んぬいで 大口のそばを高く取り狩衣の袖をうつ肩 ぬいで。花の木蔭に狙ひ寄って。よつぴ きひやうと。射ばやと思へども仏の戒め 給ふ殺生戒をば破るまじ。 狂言「言語道断面白き事を仰せられ候。ま た人の御所望にて候。当寺のいはれを曲 舞につくりて御謡ひ候ふ由を聞しめして 候。一節御謡ひ候へとの御所望にて候。 シテ詞「易きこと謡うて聞かせ申さうずる にて候。サシ「さればにや大慈大悲の春の 花。地「十悪の里に香しく。三十三身の秋

の月。五濁の水に影清し。クセ「そも/\こ の寺は。坂の上の田村丸。大同二年の春 の頃。草創ありしこの方。今も音羽山。 嶺の下枝の滴に。濁るともなき清水の。 流を誰か汲まざらん。或時この瀧の水。 五色に見えて落ちければ。それを怪しめ 山に入り。その水上を尋ねるに。こんじゆ せんの岩の洞の。水の流に埋もれて名は 青柳の朽木あり。その木より光さし。異 香四方に薫ずれば。シテ「さては疑ふ所な く。地「楊柳観音の。御所変にてまします かと。皆人手を合はせ。猶もその奇特を 知らせて給べと申せば。朽ち木の柳は緑を なし。桜にあらぬ老木まで。皆白妙に花 咲きけり。さてこそ千手の誓には。枯れ たる木にも。花咲くと今の世までも申す なり。 ワキ詞「あら不思議や。これなる花月をよ くよく見候へば。某が俗にて失ひし子に

て候ふはいかに。名のつて逢はゞやと思 ひ候。いかに花月に申すべきことの候。 シテ「何事にて候ふぞ。ワキ「御身はいづく の人にてわたり候ふぞ。シテ「これは筑紫 の者にて候。ワキ「さて何故かやうに諸国 を御廻り候ふぞ。シテ「われ七つの年彦山 に登り候ひしが。天狗に捕られてかやう に諸国を廻り候。ワキ「さては疑ふ所もな し。これこそ父の左衛門よ見忘れてある か。狂言「なう/\御僧は何事を仰せられ 候ふぞ。ワキ「さん候この花月は某が俗に て失ひし子にて候ふ程に。さてかやうに 申し候。狂言「げにと御申し候へば。瓜を 二つに割つたるやうにて候。この上はい つものやうに八撥を御打ち候ひて。うち つれだつて故郷へ御帰り候へ。 物着シテ「扨もわれ筑紫彦山に登り。七つ の年天狗に。地「とられて行きし山々を。 思ひやるこそ悲しけれ。羯鼓「とられて行

きし山々を思ひやるこそ悲しけれまづ筑 柴には彦の山。深き思を四王寺。讃岐に は松山降り積む雪の白峯。さて伯耆には 大山/\。丹後丹波の境なる鬼が城と。 聞きしは天狗よりもおそろしや。さて京 近き山々/\。愛宕の山の太郎坊。比 良野の峰の次郎坊。名高き比叡の大獄に。 少しこゝろのすみしこそ。月の横川の 流なれ。日頃はよそにのみ。見てや止み なんと眺めしに。葛城や。高間の山。山

上大峰釈迦の嶽。富士の高嶺にあがりつ つ。雲に起き臥す時もあり。かやうに狂 ひめぐり心乱るゝこのさゝら。さら/\ さら/\とすつては謡ひ舞うては数へ。 山々嶺々里々をめぐり/\てあの僧に。 逢ひ奉る嬉しさよ。今よりこのさゝら。 さつと捨てゝさ候はゞ。あれなる御僧に。 連れまゐらせて仏道の。つれ参らせて仏 道の修行に出づるぞ嬉しかりける修行に 出づるぞ嬉しかりける。