旅人 東岸居士

ワキ詞「是は遠国方の者にて候。我此程は都 に上り。彼方此方を一見仕りて候。又今

日は清水寺へ参らばやと存じ候。 シテ一セイ「松をさへ。皆桜木に散りなして。

花に声ある嵐かな。ワキ詞「これは承り及び たる東岸居士にて渡り候ふか。さて今日 は如何様なる聴聞の御座候ふぞ。シテ詞「事 あたらしき問事かな。聴問といつぱ。万 事は皆目前の境界なれば。柳は緑花は 紅。あら面白の春の景色やな。ワキ詞「あら 面白の答や候。さてこの橋は如何なる人 の懸け給ひし橋にて候ふぞ。シテ「これ は先師自然居士の。法界無縁の功力を以 て。渡し給ひし橋なれば。今又かやうに 勧むるなり。ワキ「さて/\東岸西岸居士 の。詞「郷里は何処如何なる人の。父母を はなれし御出家ぞや。シテ詞「むつかしの事 を問ひ給ふや。本来来る所もなければ。 出家といふべき謂もなし。出家にあらね ば髪をも剃らず。衣を墨に染めもせで。 唯おのづから道に入つて。ワキ「善を見て も。シテ「進まず。ワキ「智を捨てゝも。 シテ「愚ならず。ワキ「をりに触れ。シテ「事

に渡りて白川に。ワキ「かゝれる橋は。 シテ「西。ワキ「東の。地「東岸西岸の柳の。 髪は長く乱るゝとも。南枝北枝の梅の花。 開くる法の一筋に。渡らんための橋なれ ば。勧に入りつゝ。彼の岸に至り給へや。 ワキ地?「又いつもの如く歌うて御聞かせ候 へ。シテ詞「実に/\これも狂言綺語を以 て。讃仏転法輪の真の道にも入るなれば。 人の心の花の曲。いざや歌はんこれとて も。地次第「御法の舟の水馴棹。/\。皆 彼の岸に至らん。シテ「おもしろや。これ も胡蝶の夢の中。地「遊びたはふれ。舞ふ とかや。中ノ舞「。 シテクリ「鈔に又申さく。あらゆる所の仏法の 趣。地「箇々円成の道すぐに今に絶えせぬ 跡とかや。シテサシ「但し正像すでに暮れて。 末法に生を受けたり。地「かるが故に春過 ぎ秋来れども。進み難きは出離の道。 シテ「花を惜み月を見ても。起り易きは妄

念なり。地「罪障の山にはいつとなく。煩 悩の雲あつうして仏日の光晴れがたく。 シテ「生死の海にはとこしなへに。地「無明 の波荒くして。真如の月宿らず。クセ「生 を受くるに任せて。苦にくるしみを受け 重ね。死に帰るに随つて。闇より闇にお もむく。六道の街には。迷はぬ所もな く。生死の枢には。宿らぬ住家もなし。 生死の転変をば。夢とやいはん。又現と やせんこれら有りといはんとすれば。雲 と上り煙と消えて後其跡を留むべくもな し。無しといはんとすれば又恩愛の中。 心とゞまつて腸を断ち。魂を動かさ ずといふ事なし彼の芝蘭の契の袂には。 骸をば愁嘆の焔に焦がせども。紅蓮大。 紅蓮の氷をば終に解かす事なし。鴛鴦の。 衾の下に眼をば。慈悲の涙に湿せども。 焦熱大焦熱の焔をば。終にしめす事なし。 かゝる拙き身を持ちて。シテ「殺生偸盗邪

婬は。地「身に於て作る罪なり。妄語綺語。 悪口両舌は口にて作る罪なり。貪欲嗔恚 愚痴は又。心に於て絶えせず御法の船の 水馴棹。皆彼の岸に至らん。 ワキ詞「とてものことに羯鼓を打つて御見 せ候へ。物着「。シテ詞「面白や松吹く風颯々と して。波の声茫々たり。ワキ「処は名におふ 洛陽の。眺もちかき白河の。シテ「波の鼓 や風のさゝら。ワキ「うち連れ行くや橋の 上。シテ「男女の往来。シテ「貴賎上下の。 シテ「袖を連ねて玉衣の。さい/\沈み 浮波の。さゝら八撥打ち連れて。百千 鳥。羯鼓「。

シテ「百千鳥。囀る春は物ごとに。地「改ま れども我ぞふり行く。シテ「行くは白河。 地「行くは白河の。橋を隔てゝむかひは。 シテ「東岸。地「此方は。シテ「西岸。地「さゞ 波は。シテ「さゝら。地「うつ波は。シテ「鼓。 地「いづれも/\極楽の。歌舞の菩薩の御 法とは。聞きは知らずや。旅人よ/\。 あら面白や。 シテ「あう南無三宝。地「実に太鼓も羯鼓も 笛篳篥。絃管ともに極楽の。御菩薩の遊 と聞くものを。シテ「何と唯。地「何と唯雪 や氷と隔つらん。万法皆一如なる実相の 門に入らうよ。実相の門に入らうよ。