自然居士 人商人

狂言「かやうに候ふ者は。・東山{ひがしやま}・雲居寺{うんごじ}のあ たりに・住居{すまひ}仕る者にて候。こゝに・自然居士{じねんこじ} と申す・喝食{かつしき}の御座候ふが。・一七日{いちしちにち}・説法{せつほふ} を・御述{おんの}べ候。・今日{こんにち}・結願{けちぐわん}にて御座候。皆々 参りて聴聞申し候へ。 シテ詞「雲居寺・造営{ざうえい}の・札{ふだ}召され候へ。・夕{ゆふべ}の空 の・雲居寺{くもゐでら}。月待つほどの・慰{なぐさめ}に。・説法一座{せつほふいちざ} 述べんとて。導師高座にあがり。・発願{ほつぐわん}の ・鉦{かね}打ち鳴らし。謹み敬つて・白{まう}す。一代教主 釈迦牟尼宝号。・三世{さんぜ}の諸仏十方の薩〓{タ:大漢和05190}に 申して・白{まう}さく。・総神分{そうじんぶん}に般若心経。詞「や。 これは・諷誦{ふじゆ}を・御上{おんあ}げ候ふか。狂言「実にこ れは美しき小袖にて候。急いで此・諷誦文{ふじゆもん} を御覧候へ。シテ「敬つて申し受くる諷誦 のこと。三宝衆僧の・御布施{おんふせ}・一裹{いつくわ}。右志す

所は。・二親{にしん}・精霊頓証{しやうりやうとんしやう}仏果の為。・身{み}の・代{しろ} ・衣{ごろも}・一襲{ひとかさね}。三宝に供養し奉る。かの・西天{さいてん} ・貧女{ひんぢよ}が。・一衣{いちえ}を僧に・供{くう}ぜしは。身の後 の世の逆縁。今の貧女は親の為。地歌「身 の代衣恨めしき。/\。浮世の中をとく 出でて。・先考{せんかう}・先妣{せんぴ}諸共に。同じ・台{うてな}に生れ んと読み上げ給ふ・自然居士{じねんこじ}墨染の袖を濡 らせば。数の・聴衆{ちやうじゆ}も色々の袖を濡らさぬ。 人はなし袖を濡らさぬ人はなし。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。東国方の・人商人{ひとあきびと} にて候。我此度都に上り。数多人を買ひ 取りて候。又・十四五{じふしご}ばかりなる女を買ひ 取りて候ふが。昨日少しの・間{あいだ}・暇{いとま}を乞ひ て候ふ程に・遣{や}りて候ふが。未だ帰らず候。 なう渡り候ふか。昨日の幼き者は。親の

追善とやらん申して候ひつる程に。説法 の座敷にあらうずると存じ候。自然居士 の雲居寺に御座候ふ程に。立ち越え見う ずるにて候。ワキツレ「然るべう候。ワキ「や。さ ればこそこれに候へ。なう急いで連れて ・御入{おんい}り候へ。狂言「やるまいぞ。ワキ「用が ある。狂言「用が有らば連れて行け。いか に居士へ申して候。シテ「何事にて候ふ ぞ。狂言「唯今諷誦を上げて候ふ女を。・荒{あら} けなき男の来り候ひて追つ立てゝ行き候 ふ程に。遣るまじきと申し候へば。用が あると申し候ふ程に遣りて候。シテ「あら ・曲{きよく}もなや・候{ざふらふ}。始より彼の女は・様{やう}有りげに 見えて候。其上諷誦を上げ候ふにも。唯 ・小袖{こそで}とも書かず。身の代衣と書いて候ふ よりちと不審に候ひしが。居士が推量申 すは。彼の者の親の追善の為に。我が身 を此小袖に替へて諷誦を上げたると思ひ 候。さあらば唯今の者は人商人にて候ふ

べし。彼は道理・此方{こなた}は・僻事{ひがこと}にて候ふ程に。 御身の留めたる・分{ぶん}にてはなり候ふまじ。 狂言「人商人ならば東国方へ下り候ふべ し。大津松本へ某はしり行き留めうずる にて候。シテ「暫く。・御出{おんい}で候ふ分にては なり候ふまじ。居士此小袖を持ちて行き。 彼の女に代へて連れて帰らうずるにて 候。狂言「いやそれは・今日{けふ}までの・御{ご}説法が 無になり候ふべし。シテ「いや/\説法は ・百日{ひやくにち}・千日{せんにち}・聞{きこ}し召されても。善悪の二つを 弁へん為ぞかし。今の女は善人。・商人{あきびと}は 悪人。善悪の二道こゝに極つて候ふは如 何に。・今日{けふ}の説法はこれまでなり。・願以{ぐわんい} ・此功徳{しくどく}・普及於一切{ふきふをいつさい}。・我等与衆生皆共成{がとうよしゆじやうかいぐじやう}。 仏道修行の為なれば。地「身を捨て人を助 くべし。ワキワキツレ「今出でて。・其処{そこ}ともいさ や白波の。此・舟路{ふなぢ}をや。急ぐらん。シテ「舟 無くとても説く・法{のり}の。地「道に心を。留めよ かし。シテ詞「なう/\其・御舟{おんふね}へ物申さう。

ワキ「これは・山田矢橋{やまだやばせ}の・渡舟{わたしぶね}にてもなきも のを。・何{なに}しに招かせ給ふらん。シテ「我も ・旅人{りよじん}にあらざれば。・渡{わたり}の舟とも申さばこ そ。その御舟へ物申さう。ワキ「さて此舟 をば・何舟{なにぶね}と御覧じて候ふぞ。シテ「其・人買舟{ひとかひぶね} の事ざうよ。ワキ「あゝ・音{おと}高し何と/\。 シテ「道理々々。よそにも人や白波の。音 高しとは道理なり。人買と申しつるは。 其舟漕ぐ櫂の事ざうよ。ツレ「艪には・唐艪{からろ} といふ物あり。人買と云ふ・櫂{かい}はなきに。 シテ「水の・煙{けぶり}の霞をば。・一霞{ひとかすみ}・二霞{ふたかすみ}。・一汐{ひとしほ} ・二汐{ふたしほ}なんどといへば。今漕ぎ初むる舟な れば。・一櫂舟{ひとかいぶね}とは僻事か。ワキ詞「実に面白 くも述べられたり。さて/\何の用やら ん。シテ「これは自然居士と申す・説経者{せつきやうじや}に て候ふが。説法の・場{には}をさまされ申す。恨 申しに来たりたり。ワキ「説法には道理を 述べ給ふ。詞「我等に僻事なきものを。 シテ「・御{おん}僻事とも申さばこそとにかくに。

・本{もと}の小袖は参らする。舟に離れて叶はじ と。裳裾を波に浸しつゝ。舟ばたに取り つき引きとゞむ。ワキ「あら・腹立{はらたち}やさりな がら。・衣{ころも}に恐れて得は打たず。これも汝 が・科{とが}ぞとて。・艪櫂{ろかい}を持つて・散々{さん%/\}に打つ。 シテ「打たれて声の出でざるは。若し空し くやなりつらん。ワキ「何しに空しくなる べきと。シテ「引き立て見れば。ワキ「身に は縄。地「口には・綿{わた}の・轡{くつわ}をはめ。泣けども 声が。出でばこそ。 シテ詞「あら不便の者や。やがて連れて帰ら うずるぞ心安く思ひ候へ。ワキ「なう自然 居士舟より・御{おん}・下{お}り候へ。シテ「此者を賜は り候へ。小袖を召され候ふ上は・御損{ごそん}も候 ふまじ。ワキ「参らせたくは候へどもこ こに・笑止{せうし}が候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「さん候我等が中に・大法{たいほふ}の候。それ を如何にと申すに。人を買ひ取つて再び 返さぬ法にて候ふ程に。え参らせ候ふま

じ。シテ「委細承り候。又我等が中にも 堅 き大法の候。かやうに身を徒らになす者 に行き逢ひ。若し助け得ねば。再び・庵室{あんじつ} へ帰らぬ法にて候ふ程に。・其方{そなた}の法をも 破るまじ。又・此方{こなた}の法をも破られ候ふま じ。所詮此者と連れて・奥陸奥{おくむつ}の国へ・下{くだ}る とも。舟よりはおりまじく候。ワキ「舟よ り・御{おん}おりなくは・拷訴{がうそ}をいたさう。シテ「拷訴 といつぱ・捨身{しやしん}の・行{ぎやう}。ワキ「命を取らう。 シテ「命を取るともふつつと・下{お}りまじい。 ワキ「・何{なに}と命を取るともふつつと下りまじ いと・候{ざふら}ふや。シテ「なか/\の事。ワキ「い や此自然居士に持て扱うて候ふよ。なう 渡り・候{ざふら}ふか。ワキツレ「何事にて候ふぞ。ワキ「さ てこれは何と仕り候ふべき。ワキツレ「これは ・御{おん}帰しなうては叶ひ候ふまじ。よく/\物 を案じ候ふに。奥より人商人の都に上り。 人に買ひかねて。自然居士と申す説経者 を買ひ取り・下{くだ}りたるなんどと申し候は

ば。一大事にて候ふ程に。・御{お}帰しなうては 叶ひ候ふまじ。ワキ「我等も左様に存じ候 さりながら。・唯{たゞ}帰せば無念に候ふ程に。色 色に・嬲{なぶ}つて帰さうずるにて候。ワキツレ「尤も 然るべう候。ワキ「なう/\自然居士急い で舟より・御{おん}上り候へ。シテ「いや/\・聊爾{れうじ} には下りまじく候。ワキ「何の聊爾の候ふ べき唯・御{おん}上り候へ。シテ「あゝ・船頭殿{せんどうどの}の・御{お} 顔の色こそ直つて候へ。ワキ「いやちつと も直り候ふまじ。又これなる人の申され候ふは。今度始めて都へ上りて候ふが。 自然居士の・舞{まひ}の事を承り及びて候。・一{ひと}さ し舞うて・御{おん}見せあれと申され候。シテ「総 じて居士は舞まうたる事はなく候。 ワキ「それは・御{おん}偽にて候。・一年{ひととせ}今のごと く説法御述べ候ひし時。いで聴衆の・眠{ねぶり}覚 さんと。高座の上にて一さし・御{おん}舞有りし こと。奥までも其聞え候ふ程に。一さ し御舞ひ候へ。シテ「おうそれは狂言綺語

にて候ふ程に。さやうの事も候ふべし。 舞を舞ひ候はゞ此者をたまはり候ふべき か。ワキ「・先{まづ}御舞を見て。其時の・仕儀{しぎ}によ つて参らせ候ふべし。これに烏帽子の候。 これを召して御舞ひ候へ。物着「。シテ「よくよ く物を案ずるに。・終{つひ}には此者を賜はらん ずれども。たゞ帰せば損なり。居士を色々 になぶつて恥を与へうと・候{ざふら}ふな。余りに それはつれなう候。ワキ「いや何のつれな う候ふべき。シテ「志賀辛崎の一つ松。 地「つれなき人の。心かな。中之舞「。 シテ「抑舟の起を尋ぬるに。みなかみ黄帝 の御宇より事起つて。地「・流{ながれ}・貨狄{くわてき}が・謀{はかりごと} より出でたり。シテ「こゝに又・蚩尤{しいう}といへ る・逆臣{げきしん}あり。地「彼を亡ぼさんとし給ふ に。・烏江{をうがう}といふ海を隔てゝ。攻むべき様 もなかりしに。クセ「黄帝の臣下に。貨狄 と云へる士卒あり。ある時貨狄・庭上{ていしやう}の。 池の・面{おもて}を見渡せば。折節秋の末なるに。

寒き嵐に散る柳の・一葉{ひとは}水に浮・び{ミ}しに。又 蜘蛛といふ虫。これも虚空に落ちけるが 其一葉の上に乗りつゝ。次第々々に・笹蟹{さゝがに} のいとはかなくも柳の葉を。吹きくる風 に誘はれ。・汀{みぎは}に寄りし・秋霧{あきぎり}の。立ちくる蜘 蛛の振舞実にもと思ひそめしより。・工{たく}み て舟を造れり。黄帝これに召されて烏江 を漕ぎ渡りて蚩尤を安く亡ぼし。・御代{おんよ}を 治め給ふ事。・一万八千歳{いちまんはつせんざい}とかや。シテ「然 れば・舟{せん}のせんの字を。地「・公{きみ}に・前{すゝ}むと書き たり。さて又天子の・御舸{おんか}を・龍舸{りようか}と名づけ 奉り。舟を・一葉{いちえふ}と。云ふ事此御宇より始 まれり。又君の御座舟を。・龍頭鷁首{りようどうげきしゆ}と申 すも此・御代{みよ}より起れり。 ワキ「如何に申し候。我等が舟を龍頭鷁首 と・御{おん}祝ひ候ふこと過分に存じ候。とて ものことにさゝらを摺つて・御{おん}見せ候へ。 シテ詞「さらば竹を賜はり候へ。ワキ「折ふし ・船中{せんちう}に竹が候はぬよ。シテ「苦しからず候。

かの仏の難行苦行し給ひしも。一切の衆生 をたすけんためぞかし。居士もまたそ の如く。身を・谷下{こくか}に砕きても。彼の者を たすけんためなり。夫れさゝらの起を尋 ぬるに。東山に在る・御僧{おんそう}の。扇の上に・木{こ} の葉のかゝりしを。持ちたる数珠にて。 さらり/\と払ひしより。さゝらといふ 事始まりたり。居士もまたその如く。さ さらのこには百八の数珠。さゝらの竹に は扇の骨。おつ取り合はせこれを摺る。 処は志賀の浦なれば。地「さゝ波や/\。 志賀辛崎の。松の・上葉{うはば}をさらり/\とさ さらのまねを。数珠にてすれば。さゝら

よりなほ手をも摺るもの。今は助けてた び給へ。 ワキ詞「手を摺るなどと承り候ふ程に参ら せ候ふべし。とてもの事に・鞨鼓{かつこ}を打つて ・御{おん}見せ候へ。物着「。地「・本来{もとより}・鼓{つゞみ}は波の・音{おと}。鞨鼓「。 地「もとより鼓は波の音。寄せては岸を。ど うとは打ち。・雨雲{あまぐも}迷ふ・鳴神{なるかみ}の。とゞろと どろと鳴る時は。降り来る雨ははら/\ はらと。・小笹{をざさ}の竹の。簓をすり。池の氷の とう/\と。鼓を又打ち。簓をなほ摺り。 狂言ながらも・法{のり}の道。今は菩提の。岸に 寄せくる。船の内より。ていとうと打連 れて。共に都に上りけり/\。