最明寺時頼 月若の家臣 鳴尾某 藤栄の従者 鳴尾の下人

ワキ次第「行方定めぬ道なれば。/\こし方も 何処ならまし。詞「これは諸国一見の僧に て候。我いまだ西国を見ず候ふほどに。 この度思ひたち西国行脚と志して候。 サシ「城南の離宮に赴き都をへだつる山崎 や。関戸の宿は名のみして。泊りもはてぬ 旅のならひ。うき身はいつも交りの。塵 のうき世の芥川。猪名の小笹を分け過ぎ て。下歌「月も宿借る昆陽の池水底清くす みなして。上歌「芦の葉分の風の音。 /\。 聞かじとするに憂きことの。捨つる身ま

でも有馬山隠れかねたる世の中の。うき に心はあだ夢の。さむる枕に鐘遠き。灘 波は後になる尾潟芦屋の里に着きにけり 芦屋の里に着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。芦屋の里に着きて 候。日の暮れて候ふほどに。宿を借らば やと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内 へ案内申し候。男「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御 貸し候へ。男「安きほどの御事にて候へど も。余りに見苦るしく候ふ程に。御宿は

叶ひ候ふまじ。ワキ「我等如きの世を捨て 人に。何を御恥ぢ候ふべき。唯御貸し候 へ。男「さらば御宿を参らせんと。いぶせ き床の塵はらひ。地「十符の菅薦。しきり に松風やうき世の夢を覚ますらん。さて いつの世の情ぞや。雨は降らねど此宿は。 一樹の蔭とおぼえたり/\ ワキ詞「いかに申し候。これなる幼き人は。 此屋の内には似合はぬ人にて渡り候。誰 が御子息にて候ふぞ。男「いや名も無き人 にて候。ワキ「何と仰せ候ふとも唯人とは 見え給はず候。何の苦しう候ふべきまつ すぐに御名のり候へ。男「何をか包み申す べき。これは芦屋の先地頭藤左衛門殿の 御子息にて渡り候。ワキ「なうそれは何と て此屋の内には御入り候ふぞ。男「叔父御 の藤栄殿に跡を押領せられ。かゝる姿と 御成り候。ワキ「さて重書をば御持ち候は ぬか。男「重書は是に候。ワキ「そと御見せ

候へ。男「いや/\大事のものにて候ふ程 に如何にて候。ワキ「そと見申してやがて 返し申さうずるにて候。男「さらば御意に て候ふ程に御目にかけ候ふべし。ワキ「何 何芦屋の庄八七百余町の処。一男月若に 譲りおく所なり。芦屋の藤左衛門尉家 俊。や。何とてかやうの証跡正しきもの を御持ち候ひて。御訴訟は候はぬぞ。 男「其事にて候。運の尽くる所は。最明 寺殿さへ修行に御出で候ふよし承り候ふ 間。何とも了簡なく候。ワキ「あら痛はし や候。今夜の御宿の御恩に。この幼き人 を三日が間に世に立てゝ参らせうずるに て候。男「これは何とやらん真しからず 候。ワキ「御不審もつともにて候さりなが ら。世には奇特なる事もあるものにて候。 たゞ某に御任せ候へ。男「さらば頼み申さ うずるにて候。ワキ「さて藤栄殿の在所は いづくにて候ふぞ。男「あれに見えたるが

藤栄殿の御館にて候。今日は浦遊に御出 で候ふ由申し候。ワキ「さらば浦に出でて。 かの人に逢ひ申し候ふべし。又この重書 をば某に御あづけ候へ。月若殿をば御同 道候ひて。後より御出あらうずるにて候。 男「心得申し候。 シテ詞「これは芦屋の藤栄なり。今日は日も うらゝに候ふほどに。浦遊に出でばやと 存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\。 シテ「今日は日もうらゝに候ふ間。浦遊に出 でうずるにてあるぞ。供仕り候へ。 狂言シカ%\。シテ「又あの灘に当つて。笛太鼓の音 の聞え候ふは。いかなる事ぞきいて来り 候へ。狂言シカ%\。シテ「いや/\松風波の音 にてはなし。笛太鼓の音にてある間。慥 に聞いて来り候へ。狂言シカ%\。シテ「何と某 が浦遊につき。鳴尾殿の御酒迎と申す か。狂言シカ%\。シテ「さあらばこれにて待た うずるにて候。

鳴尾下リ羽「川岸の。地「川岸の。根白の柳。あら はれにけりやそよの。シテ「あらはれて。 地「あらはれて。いつかは君と。シテ「君と。 地「我と。シテ「我と。地「君と。枕さだめぬ やよがりもそよの。シテ詞「これまでの御出 祝着申して候。鳴尾「御酒迎のために酒を 持ちて参りて候。一つきこしめされ候 へ。いかに能力。狂言シカ%\。鳴尾「何にても 一曲かなで候へ。狂言シカ%\。シテ「さあらば 一さし舞うずるにて候。吉野龍田の花も みぢ。地「更科越路の。月雪。舞。 シテサシ「こゝにまた蚩尤といへる逆臣あり。 地「かれを滅ぼさんとし給ふに。烏江とい ふ海を隔てゝ。攻むべきやうもなかりし に。クセ「黄帝の臣下に。貨狄といへる士 卒あり。ある時貨狄庭上の。池の面を見 わたせばをりふし秋の末なるに。寒き嵐 に散る柳の一葉水にうかみしに。又蜘蛛 といふ虫。これも虚空に落ちけるが其一

葉の上に乗りつゝ。次第々々にさゝがに のいとはかなくも柳の葉を。吹きくる風 に誘はれ。汀によりし秋霧の。立ちくる 蜘蛛のふるまひげにもと思ひそめしより たくみて船をつくれり。黄帝これに召さ れて。烏江を漕ぎ渡りて蚩尤をやすく滅 ぼし。御代を治め給ふ事。一万八千歳と かや。シテ「然れば船のせんの字を。君に すゝむと書きたり。さて又天子の御顔竜 顔と名づけ奉り。船を一葉と言ふ事この 御宇より始まれり。また君の御座舟を。 竜頭鷁首と申すも。この御代よりおこれ り。ワキ狂言セリフアリ。 シテ詞「あゝ暫く。最前は舞をまひ候ふ間。 今度は八撥を打つて聞かせうと云へ。 狂言シカ%\。シテ詞「行方も知らぬ修行者に。 舞一さし乞はれたるは。あつぱれ藤栄 がためには面目なり。総じて藤栄八撥を 打つたる事はなけれども。あまりに彼奴

が憎さに。わざと羯鼓の撥を大きにあつ らへ。小笠の内へ見参申さでは叶ふまじ。 地「本より鼓は波の音。羯鼓、地「もとより鼓は 波の音。寄せては岸をどうどは打ち。天 雲まよふ鳴神の。とゞろ/\と鳴る時は。 降りくる雨ははら/\はらと。小篠の竹 の。音も八撥もいざ打たういざ打たう。 シテ詞「この上はさし扇を除けられ候へ。 ワキ「やあこれこそ鎌倉の最明寺実信よ見 忘れたるか藤栄。何とて八撥をば打たぬ ぞ打てとこそ。汝は過分の振舞かな。何 とて総領月若をば追ひいだし。賎しき海 士の奴となす事。前代未聞の僻事なり。 われ諸国を修行する事全く余の儀にあら ず。かやうの在々所々の政道を致さんが ためなり。いかに月若。さぞ此間は無念 にありつらんな。けふは最上吉日なれば。 芦屋の庄七百余町の処。月若に与ふる 所なり。まつた藤栄が事は。重科人の事

なれば。いかなる流罪死罪にも行ふべけ れども。よし/\慈悲は上より下り。仇 をば恩にて報ずるなれば。汝が知行それ は相違あるべからず。今日よりしては総 領を総領とし。一家繁昌たるべしと。か さねて下知を下しけり。地「げにありがた き御政道。直なる時の世に出づる。月若 が心の中。天にもあがるばかりなり。 地キリ「やがて本宅に立ちかへり/\。知行 の道もたゞしく。総領庶子繁昌し一族の 栄花きはもなし。百姓も万民も。みな朝 恩にほこりて。栄ふる御代とぞなりに ける。