曽我十郎祐成 団三郎 箱根の別当 箱王丸 能力

シテ団三郎次第「打つを限の秋衣。/\。うらみ をいつか晴らさん。シテ詞「これは曽我の十 郎祐成にて候。さても某が親の敵の事。 世に隠なく候へども。敵は猛勢我等は一

人のことにて候ふ程に。思ふにかひなく 罷り過ぎ候。又弟にて候ふ箱王は。幼少 より箱根の御寺に上せ置きて候。余りに 便なく候ふ程に。彼の者を男にし。もろ

ともに本望を達せばやと思ひ。唯今箱根 の御寺へと急ぎ候。サシ「一樹の蔭に宿る 事も。これ生々の契なり。シテ団三郎二人「同井 の流を汲むもみな。前世の語らひの宿縁 なり。深きちぶさの海山の。たとへは積 る恩徳の。情を思ふ涙の袖乾す便をと待 つまでの命を頼むばかりなり。身は露霜 の果までも。兄弟ならでは又もなし。急 ぎ箱根の寺へ上り。箱王殿をよび下し。 下歌「父の恨の涙の袖をもともに乾すやと て曽我の里を立ち出づる。上歌「月影は雪 にて明くる箱根山。/\。嶺も二つの影 添ひて。ほの%\と。うつろふ富士の湖 の波の雪も時知らで。春夏秋をば送れど も。いつか思の末通る。心ばかりの頼に や。つれなき命惜むらん。/\。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。これは早箱根の御寺 に着きて候。いそぎ別当に参り。某登 山仕りたる由申し候へ。団三郎「畏つて候。

いかに此内へ案内申し候。狂言「誰にて渡 り候ぞ。団三郎「祐成の御登山にて候。 狂言「心得申し候。暫く御待ち候へ。やが て申し入れずるにて候。いかに申し上 げ候。ワキ詞「何事ぞ。狂言「唯今祐成の御登 山にて御座候。ワキ「何と祐成の御登山と 申すか。狂言「さん候。ワキ「此方へと申せ。 狂言「畏まつて候。如何に申し候。こなたへ 御出あれと申され候。団三郎「心得申し候。 かう/\御通あれとの御事にて候。 ワキ「いかに祐成こなたへ御入り候へ。さ てたゞ今は何の為の御登山にて候ふぞ。 シテ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。 弟にて候ふ箱王を申し請け。元服せさせ ばやと存じ。其ため登山仕りて候。ワキ「何 箱王殿を元服させん為に御出と候ふや。 シテ「さん候。ワキ「これは思ひもよらぬこ とを承り候ふものかな。箱王殿の御事は。 大方殿より出家になし申せとこそ承り候

ふに。何と思し召して斯様には承り候ふ ぞ。シテ「仰尤もにて候へども。それは母に て候ふものゝ女計らひにて申され候。唯 ひらに祐成にたまはり候へ。ワキ「いや大 方殿の御意ばかりにても候はず。故河津 殿より仰せらるゝ子細の候ふ間。総じて 祐成は御いろひあるまじく候。シテ「仰少 しも違はず候。親にて候ふ者の申す事は さる事にて候へどもさりながら。御心を 静めて聞し召され候へ。我等が親の敵の 事。あはれ討たばやとは存じ候へども。敵 は猛勢力なし。唯別当の御慈悲にて。箱王 殿を男になし。父の恨の敵をも。ともに 討たせて給はらば。出家の功徳に劣るま じと。地下歌「かき口説きつゝ申せば是非の 言葉もあらばこそ。理なれや痛はしやと。 別当も列座の人も殊に袖をしほりけり。 上歌「夢の世にながらへて。/\。あるも かひなき身の行方。命ぞ恨なる惜しまず

ながら存へて。思はいつかは末遂げて。 胸の煙も其名をも富士の嶺に上げて兄弟 が。其亡き跡と弔はれん/\。 ワキ詞「言語道断。祐成にくどき立てられ申 してそゞろに落涙仕りて候。此上は力及 ばぬ事。別当は早領掌申して候ふさり ながら。箱王殿の御心中を存ぜず候ふほ どに。呼び出し尋ね申さうずるにて候。 シテ「かゝる祝着なる事こそ候はね。さら ば箱王を此方へ召され候へ。ワキ「如何に 能力。祐成の御登山にてあるぞ。箱王殿 にこなたへと申し候へ。狂言「畏つて候。 ワキ「御覧候へ殊の外なる御成人にて候ふ ぞ。シテ「仰の如く久しく見候はねば抜群 成人仕りて候。 ワキ「いかに箱王殿。唯今祐成の御登山余 の儀にあらず。御身を元服せさせ申し候 はんとの御事にて候。但し箱王殿は何と 思し召され候ふぞ。子方「とも角も師匠の

御計らひにてこそ候らへさりながら。我 等が親の敵の事。世にかくれなき事ぞか し。同じ兄弟にて候へば。十郎殿の御身 の上。ひとりに限らぬ敵ぞかし。たとひ 寺にありとても。忘るゝ隙はよもあらじ。 とも%\はからひ給ひ候へ。ワキ詞「さては 箱王殿の御心中も元服の御望と聞え申し て候。いかに祐成心をしづめて聞し召さ れ候へ。箱王殿生れさせ給ひし時。故河 津殿別当を召され。この子よくは弟子と もなし。悪しくはともかくも別当が計ら ひたるべしと仰せられし程に。権現の社 官別当なれば。箱根をかたどり御名をも 箱王殿と附け申す。今元服の折までも。 師弟の契約浅からず。同じくは出家をも 遂げさせ申し。一寺をも継がせ申したく は候へども。御身の心もさすがなり。祐 成の御事も痛はしゝ。よし俗体になり給 ふとも。内には慈悲の心中をなし。外に

は仁義を旨として。祐成の影身になり給 へと。別当自ら酌を取り。地「行く末を祈 る師弟や兄弟の。/\。情はともに浅か らぬ。深き箱根の海山のたとへは同じ心 にて。年々月日を迎へても。なほ成人を 急ぎつる。其かひありて今は早。ともに影 高き花の若枝ぞめでたき。かくて此の日も 暮方の月の盃いそぎつゝ。シテ子方ロンギ「時刻も 今はうつるなり暇申して帰らん。ワキ「花 を吹く嵐につるゝ梅が香を。留めても いかゞ有明の尽きぬぞ名残なりける。 シテ子方「名残はさぞなあらましの。末頼ある 中なれば。ワキ「また登山もあるべしや。 シテ子方「さらばといひて兄弟は。ワキ「早門前 を。シテ子方「出て行けば。地「さすがに別当も。 年月馴れしなじみをば。いつか忘れんそ の跡を。見やれば伴ひ兄弟は。曽我の里 にぞ帰りける/\。シテ詞「いかに団三郎。 団三郎「御前に候。シテ「別当の色々仰せられ

しを。涯分申して箱王を伴ひ帰ることの 嬉しさは候。団三郎「御諚の如く近頃目出度 き御事にて候。 子方「いかに申すべき事の候。シテ「何事に て候ふぞ。子方「此まゝ故郷へ帰り母御に 対面申すならば。定めて元服は叶ふまじ きと仰せ候ふべし。唯この路次にて髪を はやして賜はり候へ。シテ「実に/\これ は尤もにて候さりながら。元服などゝ申 す事は聊爾にはなき事にて候。但しいか に団三郎。団三郎「実に/\箱王殿の御諚の 如く。此まゝ御帰り候はゞ。定めて大方 殿とかく仰せられ候ふべし。こざかしき 申事にて候へども。何か苦しう候ふべき。 唯この人宿にてそと御ぐしをはやし申さ れ候へかしと存じ候。シテ「さては汝もさ やうに存ずるよな。さらばこれなる人宿 にてそと髪をはやさうずるにて候。 サシ「実にや我等程果報つたなき者はよも

あらじ。幼くして父を討たせ。其本望 をば遂げずして。なほ有りがひなき身と なりぬ。よし/\それも命を限り。終に は恨を晴るべきなれば。たゞ元服こそ嬉 しけれと。兄弟主従すご/\と。地「髪を はやして千代までと。言葉ばかりは祝へ ども。そゞろにせきあへぬ涙や袖をしほ るらん。 地クリ「それ生死の道さま%\にして輪廻 の迷多し。因果を離れぬ絆みな。親子兄弟 の。宿縁なり。シテサシ「実にや人の親の迷ふ 事。まことの闇にはあらねども。地「子を 思ふ道には辿ると云ふ。雲居の鶴は月影 の。さやけき空と思へども。それも子を のみ思ひの闇に。声をかはして鳴くとか や。シテ「我等は又親の跡に。地「残りて物 を思ひの露の。雨とも降り涙とも過ぎ。 いつかは晴れん心の闇の。シテ「名をやう づまん苔の下。地「朽つるは憂き世の。習

かな。クセ「龍門原上の。土に身はなる とも。屍の跡を思へたゞ。惜みても惜 むべきは後名の嘲。されば大国に千里 を駆ける虎は。一毛を惜みて吹き来る風 を含みて其身をかへて死すとかや。日 本の弓取は。其名を末代の家に惜み。一 命を軽んずるも。これ皆明経に本文を思 ふ心なり。身は一代名は末代。理や世の 中は電光朝露石の火のあるにもあらぬ草 の露。消ゆる境は夢なれや。シテ「今の我 等が有様を。地「思ふも憂き命の。惜から ぬ身なれども。本望を遂ぐるまでと。頼 む便や兄弟。主従ともにすご/\と。髪 をはやして祝言の。言の葉添ふる初元結。 行方はめでたかるべしや。親孝行もかく ばかり。さこそは草の蔭に我等を守り給 ふらん。 ワキ詞「如何に能力。狂言「御前に候。ワキ詞「祐 成に申すべき事のあるをはつたと失念し

てあるぞ。追付いて申さうずる間。汝は 先へ行きて候ひ。いづくまで御出ありた るぞ見て来り候へ。狂言「畏つて候。 狂言「いかに申し候。団三郎「誰にて渡り候 ふぞ。狂言「別当のこれまで御出にて候。 団三郎「さらば其由申し上げうずるにて候。 いかに申し候。別当のこれまで御出にて 候。シテ「何別当のこれまで御出と申す か。此方へ御出あれと申し候へ。団三郎「畏 つて候。こなたへ御出あれとの御事にて 候。シテ「さてこれまでの御出は何事にて 候ふぞ。ワキ「さん候これまで参る事余 の儀にあらず。箱王殿の御髪を。愚僧は やし申さんために参りて候。シテ「其事に て候。箱王申し候ふは。此まゝ故郷へ帰 り候はゞ。母にて候ふ者定めて元服は叶 ふまじき由申し候はんずる間。此路次に て髪をはやせと申し候ふほどに。たゞ今 これにて某がはやし申して候。御覧候へ

なんぼう見事の男になりて候。ワキ「それ こそ目出度き御事にて候へ。いで/\元 服を祝はんと。別当に伝はる重代の太刀。 伊豆権現の力を添へ。思ふ本望遂げ給へ と。箱王殿に奉る。地「やがて祝の御酒一 つ。/\。すゝめ申せや人々と同じくと もに円居して酒宴をこそは始めけれ。 シテ「咲く頃の。梢時めく折にてき。地「烏 帽子桜の。花を見ん。 ワキ詞「いかに祐成。これはめでたき折なれ ばひとさし御舞ひ候へ。地「烏帽子桜の。

花を見ん。男舞シテワカ「菊の名の。曽我の昔を。 思ひ出でて。地「万代祝ふ心こそあれ。心 こそあれ/\。シテ「こゝろ言葉は人の情。 地「心言葉は人の情。徒らに朽ちぬ。身は 惜むべし名は残り有る代の跡の世語 夢ならば覚めなん現とも白真弓。引きは 返さじ/\富士の高嶺に必ず名を上げ て。今の世語と思し召さるべし。これこ そ名残の酒宴の戯/\。師弟の情ぞ。 有難き。