富樫某 従者 武蔵坊弁慶 同行山伏 源義経 強力

ワキ詞「かやうに候ふ者は。加賀の国富樫の ・何某{なにがし}にて候。扨も朝頼{本ママ}義経御中不和にな らせ給ふにより。判官殿十二人の作り山 伏となつて。奥へ御下向の由頼朝きこし めし及ばれ。国々に・新関{しんせき}を立てゝ。山伏 をかたく・簡び{えらミ}申せとの御事にて候。さる 間・此処{このところ}をば某承つて山伏を・留{とゞ}め申し候。 今日も固く申しつけばやと存じ候。いか に誰かある。狂言「御前に候。ワキ「今日も 山伏の・御通{おんとほり}あらばこなたへ申し候へ。

狂言「畏つて候。 シテツレ次第「旅の衣は・篠懸{すゞかけ}の。旅の衣は。篠懸 の露けき袖やしをるらん。サシ「・鴻門{こうもん}楯破 れ都の・外{ほか}の旅衣。日も遥々の越路の末。 おもひやるこそ遥なれ。シテ「さて御供の 人々には。ツレ地「伊勢の三郎駿河の次郎。 片岡増尾常陸坊。シテ「弁慶は・先達{せんだつ}の姿と なりて。ツレ地「・主従{しう%\}以上十二人。いまだ習 はぬ旅姿。袖の篠懸露霜を。今日分けそ めていつまでの。限もいさや白雪の。越

路の春にいそぐなり。歌「時しも頃は・二月{きさらぎ} の。/\十日の・夜{よ}月の都を立ち出でて。 これやこの。行くも帰るも別れては。 /\。知るも知らぬも。逢坂の山隠す。 霞ぞ春は。恨めしき霞ぞ春はうらめしき。 下歌「波路遥に行く舟の。/\。海津の浦に 着きにけり。・東雲{しのゝめ}はやく明け行けば浅茅 色づく・有乳山{あらちやま}。上歌「気比の海。宮居久し き神垣や。松の・木芽山{きのめやま}。なほ行くさきに 見えたるは。・杣山人{そまやまびと}の板取。河瀬の水の。 ・麻生津{あさうづ}や。末は三国の湊なる。芦の篠原 波よせて。靡く嵐の烈しきは。花の安宅 に着きにけり/\。 シテ詞「御急ぎ候ふほどに。これははや安宅 の湊に御着にて候。しばらく此処に御休 あらうずるにて候。子方「如何に弁慶。 シテ「御前に候。子方「唯今・旅人{たびゝと}の申して通 りつる事を聞いてあるか。シテ「いや何と も承らず候。判官「安宅の湊に新関を立て

て。山伏を固く・簡ぶ{えらム}とこそ申しつれ。 シテ「言語道断の御事にて候ふものかな。 さては御下向を存じて立てたる関と存じ 候。これはゆゝしき御大事にて候。まづ 此傍にて暫く御談合あらうずるにて候。 是は一大事の御事にて候ふ間。皆々心中 の通を御意見御申しあらうずるにて候。 ツレ「我等が・心中{しんぢう}には何程のことの候ふべ き。たゞ打ち破つて御通あれかしと存じ 候。シテ「暫く。仰の如くこの関一所打ち破 つて御通あらうずるは易き事にて候へど も。御出で候はんずる行末が御大事にて 候。唯何ともして・無異{ぶい}の義が然るべから うずると存じ候。子方「ともかくも弁慶は からひ候へ。シテ「畏つて候。某・急度{きつと}案じ いだしたる事の候。我等を始めて皆々に つくい山伏にて候ふが。何と申しても御 姿隠れ御座なく候ふ間。此まゝにては如 何と存じ候。恐れ多き申事にて候へども。

御篠懸をのけられ。あの・強力{がうりき}が負ひたる 笈をそと御肩に置かれ。御笠を深々と召 され。如何にもくたびれたる・御体{おんてい}にて。 我等より後に引きさがつて御通り候は ば。なか/\人は思もより申すまじきと 存じ候。子方「・実{げ}にこれは尤もにて候。さ らば篠懸を取り候へ。シテ「畏つて候。い かに強力。狂言「畏つて候。シテ「笈を持ち て来り候へ。狂言「畏つて候。 シテ「汝が笈 を御肩に置かるゝ事は。なんぼう冥加も なき事にてはなきか。先汝は先へ行き関 の・様体{やうだい}を見て。まことに山伏を・簡ぶ{えらム}か。 又さやうにもなきか懇に見て来り候へ。 狂言「畏つて候。 シテ「さらば御立あらうずるにて候。実に や紅は園生に植ゑても隠なし。ツレ地「強 力にはよも目を懸けじと。御篠懸を脱ぎ 替へて。麻の衣を御方にまとひ。シテ「あ の強力が負ひたる笈を。子方「義経取つて

肩に懸け。ツレ地「笈の上には・雨皮{あまがは}・肩箱{かたばこ}取り つけて。子方「・綾菅笠{あやすげがさ}にて顔をかくし。 ツレ地「・金剛杖{こんがうづゑ}にすがり。子方「足痛げなる強

力にて。地「よろ/\として歩み給ふ御あ りさまぞ痛はしき。シテ詞「我等より後に引 き下つて御出あらうずるにて候。さらば 皆々御通り候へ。ツレ「承り候。 狂言(従者)「如何に申し候。山伏達の大勢御通り 候。ワキ詞「何と山伏の御通あると申すか。 心得てある。なう/\客僧達これは関に て候。シテ「承り候。これは南都東大寺建 立の為に。国々へ客僧をつかはされ候。 ・北陸道{ほくろくだう}をば此客僧承つて罷り通り候。・先{まづ} ・勧{すゝめ}に御入り候へ。ワキ「近頃殊勝に候。勧 には参らうずるにて候去りながら。これ は山伏達に限つて留め申す関にて候。 シテ「さて其謂は・候{ざふらふ}。ワキ「さん・候{ざふらふ}頼朝義 経御中不和にならせ給ふにより。判官殿 は奥秀衡を頼み給ひ。十二人の作山伏と なつて。御下向の由其聞え候ふ間。国々 に新関を立てゝ。山伏を固く・簡ぴ{えらミ}申せと の御事にて候。さる間・此処{このところ}をば某承つて

山伏を留め申し候。殊にこれは大勢御 座候ふ間。・一人{いちにん}も通し申すまじく候。 シテ「委細承り候。それは作山伏をこそ留 めよと仰せいだされ候ひつらめ。よも・真{まこと} の山伏を留めよとは仰せられ候ふまじ。 狂言(従者)「いや昨日も山伏を三人迄切つたる 上は。シテ「さて其切つたる山伏は判官殿 か。ワキ「あらむつかしや問答は・無益{むやく}。一 人も通し申すまじい上は・候{ざふらふ}。シテ「さては 我等をもこれにて誅せられ候はんずる な。ワキ「なか/\の事。シテ「言語道断か かる不祥なる所へ来かゝて候ふものか な。此上は力及ばぬ事。さらば最期の勤 を始めて。尋常に誅せられうずるにて候。 皆々近う渡り候へ。ツレ地「承り候。 シテノツト「いで/\最後の勤を始めん。夫れ 山伏といつぱ。役の優婆塞の行義を受 け。ツレ「其身は不動明王の尊容をかたど り。シテ「・兜巾{ときん}といつぱ五智の宝冠なり。

十二因縁ののひだをすゑて戴き。 シテ「・九会{くゑ}曼荼羅の柿の篠懸。ツレ地「胎蔵 ・黒色{こくしき}のはゞきをはき。シテ「さて又・八目{やつめ}の ・草鞋{わらんづ}は。ツレ地「八葉の蓮華を踏まへたり。 シテ「出で入る息に・阿吽{あうん}の二字をとなへ。 ツレ地「即心即仏の山伏を。シテ「こゝにて討 ちとめ給はん事。ツレ地「明王の照覧はかり がたう。シテ「・熊野{ゆや}権現の・御罰{ごばつ}を当らん事。 ツレ地「立ちどころにおいて。シテ「疑あるべ からず。地「・〓{大漢和3770}阿毘羅吽欠{おんあびらうんけつ}と数珠さら/\ と押しもめば。 ワキ詞「近頃殊勝に候。先に承り候ひつる は。南都東大寺の勧進と仰せ候ふ間。定 めて勧進帳の御座なき事は候ふまじ。 勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞申 さうずるにて候。シテ「何と勧進帳を読め と・候{ざふら}ふや。ワキ「なか/\の事。シテ「心得 申して候。もとより勧進帳はあらばこそ。 笈の中より往来の巻物一巻取りいだし。

勧進帳と名づけつゝ。高らかにこそ読み 上げけれ。夫れつら/\。シテツレ地「・惟{おも}ん見れ ば大恩教主の秋の月は。涅槃の雲に隠れ ・生死{しやうじ}長夜の長き夢。驚かすべき人もなし。 こゝに中頃・帝{みかど}おはします。御名をば。聖 武皇帝と。名づけ奉り最愛のの。夫人に別 れ。恋慕やみがたく。涕泣・眼{まなこ}に荒く。・涙{なんだ} 玉を貫く思ひを。善途に翻して廬遮那仏 を建立す。かほどの霊場の。絶えなん事 を悲しみて。俊乗房重源。諸国を勧進 す。一紙半銭の。・奉財{ほうさい}の輩は。この世に ては無比の・楽{らく}に誇り当来にては。数千蓮 華の上に坐せん帰命・稽首{けつしゆ}。敬つて白すと 天も。響けと読み上げたり。ワキ「関の人々 肝を消し。地「恐をなして通しけり/\。 ワキ詞「急いで御通り候へ。シテ詞「承り候。 狂言「如何に申し上げ候。判官殿の御通り 候。ワキ「いかに是なる強力とまれとこそ。 ツレ地「すは我が君をあやしむるは。一期

の浮沈極りぬと。詞「みな一同に立ち帰る。 シテ詞「あゝ暫く。あわてゝ事を仕損ずな。 やあ何とてあの強力は通らぬぞ。ワキ「あ れは・此方{こなた}より留めて候。シテ「それは何と て御とめ候ふぞ。ワキ「あの強力がちと人 に似たると申す者の候ふ程に。さて留め て候ふよ。シテ「何と人が人に似たると は。珍しからぬ仰にて候。さて誰に似て 候ふぞ。ワキ「判官殿に似たると申す者の 候ふ程に。・落居{らくきよ}の間留めて候。シテ「や。 言語道断。判官殿に似申したる強力めは 一期の思出な。腹立や日高くは。能登の 国まで指さうずると思ひつるに。わづか の笈負うて後に下ればこそ人も怪しむ れ。総じて此程。につくしにくしと思ひ つるに。いで物見せてくれんとて。金剛 杖をおつ取つて散々に・打擲{ちやうちやく}す通れとこ そ。や。笈に目を懸け給ふは。・盗人{たうじん}ざ うな。

ツレ地「かた%\は何故に。/\。かほど賎 しき強力に。太刀刀ぬき給ふはめだれ顔 の振舞は。臆病の至りかと。十一人の山 伏は。打刀ぬきかけて。勇みかゝれる有 様は。如何なる天魔鬼神も。恐れつべう ぞ見えたる。ワキ「近頃誤りて候。はや はや通り給へ。 シテ詞「先の関をば早・抜群{ばつくん}に程隔たりて候 ふ間。・此{この}処に暫く御休みあらうずるにて 候。皆々近う御参り候へ。いかに申し上 げ候。さても唯今は余りに難義に候ひし 程に。不思議の働きを仕り候ふ事。これと 申すに君の・御運{ごうん}尽きさせ給ふにより。今 弁慶が杖にも当らせ給ふと思へば。 いよ いよあさましうこそ候へ。子方詞「さては悪 しくも心得ぬと存ず。いかに弁慶。さて も唯今の機転更に凡慮より為すわざにあ らず。唯天の御加護とこそ思へ。関の者 ども我を怪しめ。生涯限ありつる所に。

とかくの是非をばもんだはずして。唯真 の下人の如く。散々に打つて我を助くる。 これ弁慶が謀にあらず八幡の。地「御託 宣かと思へば忝くぞおぼゆる。地クリ「夫れ 世は末世に及ぶといへども。・日月{にちぐわつ}はいま だ地に落ち給はで。たとひ如何なる方便 なりとも。正しき主君を打つ杖の天罰に。 当らぬことやあるべき。子方サシ「実にや視在 の果を見て過去未来を知ると云ふこと。 地「今に知られて身の上に。憂き・年月{としつき}の二 月や。下の十日の今日の難を遁れつるこ そ不思議なれ。子方「唯さながらに十余 人。地「夢の覚めたる心地して。互に面を 合はせつゝ。泣くばかりなる。有様かな。 クセ「然るに義経。弓馬の家に生れ来て。 ・命{めい}を頼朝に奉り。・屍{かばね}を西海の波に沈め。 山野海岸に起き臥し明かす・武士{ものゝふ}の。鎧の 袖枕。かたしく・隙{ひま}も波の上。ある時は舟 に・浮び{うかミ}。風波に身を任せ。ある時は・山脊{さんせき}

の。馬蹄も見えぬ雪の中に。海少しある 夕波の立ちくる音や須磨明石の。とかく 三年の程もなく。敵を亡ぼし靡く世の。 其忠勤も徒らに。なりはつる此身の。そ も何といへる因果ぞや。判官「実にや思ふ 事。叶はねばこそ憂き世なれと。地「知れ どもさすがなほ。思ひ返せば梓弓の。す ぐなる。人は苦しみて。讒臣は。・弥増{いやまし}に 世に在りて。遼遠東南の雲を起し。・西北{せいぼく} の雪霜に。責められ埋る憂き身を。ことわ り給ふべきなるに唯世には。神も。仏も ましまさぬかや。恨めしの憂き世やあら 恨めしの憂き世や。 ワキ詞「如何に誰かある。狂言(従者)「御前に候 ワキ「さても山伏達に・聊爾{れうじ}を申して。余り に面目もなく候ふ程に。追つ付き申し酒 を一つ参らせうずるにてあるぞ。汝は先 へ行きて留め申し候へ。狂言「畏つて候。 いかに申し候。先には聊爾を申して余り

に面目もなく候ふとて。関守のこれまで 酒を持たせて参られて候。シテ詞「言語道断 の事。やがて御目に懸らうずるにて候。 狂言シカ%\、シテ詞「・実{げ}に/\是も心得たり。 人の情の盃に。うけて心を取らんとや。 これにつきてもなほ/\人に。心なくれ そ・呉織{くれはとり}。地「怪しめらるな面々と。弁慶に 諌められて。此山陰の・一宿{ひとやどり}に。さらりと ・円居{まどゐ}して。処も山路の菊の酒を飲まうよ。 シテ「おもしろや・山水{やまみづ}に。地「おもしろや山 水に。盃を浮べては。・流{りう}に引かゝる・曲水{きよくすゐ} の。手まづさへぎる袖ふれていざや舞を 舞はうよ。本より弁慶は。三塔の・遊僧{いうそう}。 舞延年の時のわか。これなる山水の。落 ちて巌に響くこそ。地「鳴るは瀧の水。 シテ詞「たべ酔ひて候ふ程に。先達御酌に参 らうずるにて候。ワキ詞「さらばたべ候ふべ し。とてもの事に先達一さし御舞ひ候へ。 地「鳴るは瀧の水。男舞シテワカ「鳴るは瀧の水。

地「日は照るとも。絶えずとうたり。絶え ずとうたりとく/\立てや。・手束弓{たつかゆみ}の。 心ゆるすな。関守の人々。暇申してさら

ばよとて。笈をおつ取り。肩に打ち懸け。 虎の尾を履み毒蛇の口を。遁れたる心地 して。陸奧の国へぞ。下りける。