土肥遠平 岡崎義実 源頼朝外四人 土肥次郎実平 和田義盛 舟子

シテツレ次第「身は捨小舟恨みても。/\。かひ なきや憂き世なるらん。頼朝詞「これは兵衛 佐頼朝とは我が事なり。扨も昨日石橋山 の合戦に味方うち負け。余りに無勢に候 ふ程に。一先安房上総の方へ開かばや

と存じ候。如何に土肥の次郎。シテ「御前 に候。頼朝「余りに味方無勢にある間。一 先安房上総の方へ開かうずるにてある ぞ。急いで舟の事を申しつけ候へ。シテ「畏 つて候。とくより御船の事を申しつけて

候。急いで召されうずるにて候。頼朝「い かに実平。シテ「御前に候。頼朝「唯今船中 に供したる人敷はいか程あるぞ。シテ「さ ん候唯七騎御座候。頼朝「さては頼朝ま では八騎よな。きつと思ひいだしたる事 あり。祖父為義鎮西へ開きし時も主従八 騎。父義朝江州へ落ち給ひしも主従八騎。 思へば不吉の例なり。実平計らひて舟よ り一人おろし候へ。シテ「畏つて候。実平 仰承り。船のせがひに立ち上り。御供の 人数を見渡せば。まづ一番には田代殿。 地「さて二番には新開の次郎。シテ「また三 番は土屋の三郎。地「四番は土佐坊五番に は。シテ「実平候六番には。遠平「同じき 遠平。シテ「艫板には。義実「義実あり。地「此 人々は君のため。/\。龍門原上の土に 屍をば晒すとも。惜しかるまじき命かな。 いづれを選び出さんと。さしもの実平思 ひかね。赤面したるばかりなり/\。

頼朝詞「いかに実平。何とて遅きぞ急いでお ろし候へ。シテ詞「畏つて候。いかに岡崎殿 に申し候。急いで御船より御下り候へ。 義実「何と某に御船より下りよと候ふや。 シテ「なか/\の事。義実「暫く。此御供の うちに。某一の老体にて候ふ程に。かひ がひしく御用にも立つまじき者と御覧じ 限られて。斯様に承り候ふな。其儀にお いては御船よりは下り候ふまじ。シテ「い や/\さやうの儀にては無く候。艫板に 召されて候ふ程に。陸の近さに申し候ふ。 義実「いや所詮此船中に。命二つ持ちたら んずる者を御船より下され候へ。シテ「こ れは不思議なる事を承り候ふ物かな。そ れ人は生ずるより死するまで。命をば一 つこそ持ちて候へ。二つ持ちたる謂の候 ふか。義実「さん候某もきのふまでは命 を二つ持ちて候ふを。はや一つの命をば 我が君に参らせ上げて候。シテ「さて其い

はれは候。義実「その事にて候。きのふ石 橋山の合戦に。子にして候ふ真田の余一義 忠は。副将軍を賜はり。俣野と組んで討た れぬ。されば親子は一体二つの命ならず や。見申せば土肥殿こそ。此御船に親子 一処に渡られ候へ。御分残つて遠平をお ろすか。遠平を残して御分おるゝか。親子 の内一人おりられ候へ。シテ「尤もにて候。 余りの道理に物なのたまひそ。いかに遠 平。君よりの御諚にてあるぞ。急いで御 舟より下り候へ。子方「何と御船より下り よと仰せ候ふか。シテ「なか/\の事急い で下り候へ。子方「遠平幼く候へども。君 の御大事に立たん事。誰にか劣り候ふべ き。御船よりは下りまじく候。シテ「こざか しき事を申す者かな。君の御為父が命に ては無きか。急いで御船より下り候へ。 子方「いや/\君の御為父の命をば背くと も。御船よりは下りまじく候。シテ「言語

道断の事を申すものかな。君の御為父が 命をば背くとも下りまじきと申すか。其 儀ならば人手には掛けまじいぞ。義実「暫 く。これは君のおん門出なるに。誤りた るか実平。シテ「いづくまでも某が誤りて 候。所詮おりまじきと申す者をおろさん より。某御船より下りようずるにて候。 子方「いかに申し候。さらば某御船より下 り候ふべし。シテ「何と下りようずると申 すか。げに/\今こそ某が子にて候へ。 あれを見よ敵大勢うち出でたり。かまへ て某が子と名のつて。尋常に討死せよ。 名残こそ惜しけれ。かくて我が子を下し 置き。実平御船に参りけり。地「ゆゝしく 見ゆる実平かなと。互の心を思ひやり。 親子の別いたはしや。 子方「父の別れは申すにおよばず。君を始め 参らせて。皆人々に御名残こそ惜う候 へ。地「かの松浦佐代姫が。唐船を慕ひ

佗びて。渚にひれ伏しゝありさまも。今 遠平が親と子の。別にかはらじと。みな 涙をぞ流しける。 子方ロンギ「契ほどなき早船を。暫しとだにも 云ひあへず。跡を見おくりたゝずめば。 地「はや遠ざかる浦の波。立ち別れゆく有 様を。子方「代の人々は心して。地「あはれ みあへる。子方「船の内に。地「実平はひた すらに。弱気を見えじとて。なか/\か へりみおきもせで。心強くも行く跡に。 敵大勢見えたりすはや遠平は討たるゝと て。頼朝もあはれみ陸を見給へばさすが げに恩愛の。契も唯今を限ぞと思ひ実平 は。磯辺にむかひ人知れず。こゝろのま まならばあはれ遠平と一処に。討死せば やとあこがれて。飛び立つばかりに思子 に別ぞあはれなりける/\。 ワキ一セイ「弓張月の西の空。行くへ定めぬ。船 路かな。狂言「沖なる波の音までも。閧の

声かと。恐ろしや。ワキ詞「あれに見えたる が御座船にてありげに候。いそいで舟を 漕ぎ候へ。狂言「畏つて候。シテ「いかに申 し候。あれに兵船一艘見えて候。まづこな たより詞をかけうずるにて候。義実「然 るべう候。シテ「いかにあれなる舟は誰 が召されたる御船にて候ふぞ。ワキ「わ れもそなたの舟影を。怪しく重ひ休らふ なり。そも誰人の舟やらん。シテ「これ は土肥の次郎実平が乗りたる舟候ふよ。 ワキ「何と土肥殿の御船と候ふや。シテ「中 中の事。さて其御船は誰が召されたる御 船にて候ふぞ。ワキ「是こそ和田の小太郎 義盛が乗りたる船候ふよ。シテ「扨は和田 殿の御船にて候ふか。ワキ「なか/\の事。 内々申し通ぜし如く。御身方に参らんた めに。是まで参りて候。さて君は其御船 に御座候ふか。シテ「和田は内々申し合は せたる事の候ふ間。唯今参りて候さりな

がら。まずたばかつて心を見うずるにて 候。いかに和田殿へ申し候。是までの御 参めでたう候さりながら。面目もなき 事の候。きのふの暮ほどより我が君を見 失ひ申し。斯様にうかれ船となつて尋ね 申し候ふよ。ワキ「何と君は其御船に御座 なきと候ふや。シテ「さん候。ワキ「言語道断 の事にて候ふ物かな。われ味方をば忍び いで。月日とも頼み奉る頼朝には離れ申 し。此上は命ありてもなにかせん。いで いで自害に及ばんと。腰の刀に手をかく る。シテ「あゝ暫く。君は此船に御座候。 ワキ「何と君はその御船に御座候ふとや。 シテ「なか/\の事。ワキ「さて何とてかや うには承り候ふぞ。シテ「是は戯言にて 候。幸に陸近う候ふ程に。其船を寄せら れ候へ。御船をも寄せ候ひて。陸にて御 対面あらうずるにて候。ワキ「心得申し候。 さらばやがて陸へ参らうずるにて候。

シテ「いかに申し候。御前にて候。ワキ「我 が君を見奉りて。いまは安堵仕りて候。 シテ「げに/\尤もにて候。ワキ「いかに土肥 殿に申し候。シテ「何事にて候ふぞ。ワキ「此 御供の中に。何とて御子息遠平は御入り 候はぬぞ。シテ「その事にて候。さる謂あ つて陸に残し置きて候。ワキ「とくよりか くと申したくは候ひつれども。以前某に 心を尽させられ候ふ其返報に。今迄はか くとも申さぬなり。いで土肥殿に引出物 申さんと。隠し置きたる船底より。遠平 を引立て見せければ。シテ「其時実平あき れつゝ。地「夢か現かこはいかにとて。覚 えず抱き付き泣き居たり。たとへば仙家 に入りし身の。半日の程に立ちかへり。 七世の孫に逢ふことの譬も今に知られた り/\。 シテ詞「いかに義盛に申し候。さて此者をば 何として召し連れられて候ふぞ。ワキ詞「さ

ん候。これまで伴ひ申したるいはれを。御 前にて申し上げうずるにて候。シテ「いそ いで御物語り候へ。ワキ「さても昨日石橋 山の合戦に破れしかば。大庭が手勢君を 討ち奉らんと。大勢渚にうち出でたりし に。某も一処に討つて出でしが。汀を見 れば。引きかねたる若者一騎ひかへたり。 某駒かけよせて見れば御子息遠平なり。 急ぎ馬より飛んで下り。生捕る体にもて なし船底に乗せ申し。これまで伴ひ参り たり。なんぼう土肥殿に義盛は忠の者に て候ふぞ。シテ「かゝるありがたき事こそ 候はね。唯今の御物語を聞き候ひて落涙 仕りて候ふを。さて人々の不覚の涙とや 思し召すらん。さりながら。地「嬉し泣の涙 は。/\。何か包まん唐衣。日も夕暮に なりぬれば。月の盃とり%\に。シテ「主 従ともに悦の。地「心うれしき酒宴かな。 ワキ詞「いかに実平。余りにめでたきをりな

れば一さし御舞ひ候へ。シテ「さらばそと 舞はうずるにて候。地「心うれしき酒宴か な。男舞「。 キリ「かくて時日を廻らさず。/\。国々 の兵馳せ参ずれば。ほどなく御勢二十万

騎になり給ひつゝたなごころに。納め給 へる此君の御代の。めでたきはじめも。 実平正しき忠勤の道に入ル/\。弓矢の 家こそ久しけれ。