楠正成 恩地左近満一 楠正行 正成従者

シテ詞「これは河内の判官正成なり。偖も 此度尊氏兄弟陸海二手に別れ。筑紫より 攻上る由其聞え候ふ間。某朝敵追討の宣 旨お蒙り。此桜井の宿までうつ立ちて候 ふ所。さる子細の候ふにより。正行に対面 せばやと存じ。恩地左近満一をして金剛 山へさし遣はして候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。シテ「正行が来りてあらば 此方へ申し候へ。トモ「畏つて候。ワキ子方次第「流 も清く行水の/\。河内の国を出でうよ。 ワキ詞「これは楠殿の御内に。恩地左近満 一にて候。扨も頼み奉り候楠殿には。朝 敵追討の宣旨を蒙り給ひ。津の国兵庫の 湊川へ御下向にて候。又御こ多門丸殿に。 桜井の宿にて御対面あらうずるとの御事

にて。唯今御供申し桜井の宿へと急ぎ候。 道行「武士の取伝へたる梓弓。/\。矢た け心一すぢに。思ひ入るさの月影も 行末照らし給へとて。名をば牡鹿の津の 国や。浪花の春にあらねども。世に芳ば しき桜井の。宿にもはやく着きにけり /\。詞「急ぎ候ふ程に。桜井の宿に御着 きにて候。先々此由を申し上げうずるに て候。いかに誰か御入り候。トモ「誰にて渡 り候ふぞ。ワキ「多門丸殿の御供申し。唯今 満一が着きたる由御披露候へ。トモ「其由 申し上げうずるにて候ふ間。暫く御待ち 候へ。シテ「北風塵埃を巻いて南枝花開く に堪へず。詞「讒者朝に蔓りて賢良野に潜 む。実にや有為転変の習とて。昨日にかは

る世の中の。人の心も秋津洲の。雲居の 空の定なき。涙の雨のふる郷に。残し置 きたる幼子に。我が真心を伝へ置き。身 は十善の君恩に。答へまつらんさりなが ら。一世とかねたる親子の中。後の世かけ て思ひやる。心の中ぞ悲しき。トモ詞「いか に申し上げ候。多門丸殿の御供申し満一 が着きて候。シテ「何多門丸が着きたると 申すか。急ぎ此方へと申し候へ。トモ「畏つ て候。其由申し上げて候へば。急ぎ御通 りあれとの御事にて候。シテ「いかに正行。 汝いまだ幼き身ながらも。父の命を背か ずして。これまではる%\参りたるこそ 神妙なれ。先づ近う参り候へ。子方「畏つ て候。シテ「偖も久しく対面申さぬうち健 気に生立ちぬるものかな。人目づつみも もれいづる我が子の髪をかきなでて。 地「親子恩愛の中なれば。/\。深き契も 有明の。月の都を後に見て又帰らじと思

ふ身を。夢にもそれとしら露の。おき残 すべき撫子の。莟める花のいつか世に。 開け行くべき生先を。思へば流石武士の。 猛き心も弱々とつゝむに余る思かな。 シテ詞「いかに正行。おことを此処に呼びよ すること余の儀にあらず。我つら/\世 の有様を観ずるに。公家一統の世となり てより。詞「佞人朝にはびこり政正しか らざるを恨み。諸国の武士皆尊氏が逆意 に与し。官軍日増に無勢となり。頼に 思ふ北畠殿は奥へ下り。忠義無二の新田 殿は。纔の勢にて兵庫に向はる。所詮此 度の合戦味方の勝利覚束なし。正成苟も 弓箭の家に生れ来て。君に捧げし一命を。 いつまでながらへ候ふべき。誠や獅子の 子は生れて三日を経ぬれば。数千丈の石壁

継ぎ候へ。子方「仰はさる御事にて候へ ども。今此際の御大事。幼き身とてお め/\と。何面目に存ふべき。同じ巷に ともかくも。なるこそ孝といふべけれ。 シテ「さては悪くも心得ぬるものかな。 父もろともに討死せば。我がなきあとに 誰あつて。君をば守護し申すべき。子方「辞 いかに仰ありとても。弓箭取る身の子と 生れ。父の最期をよそに見て。何と古郷 に帰るべき。唯御供こそ願はしう候へ。 シテ「か程の道を弁へず。父が言葉を背く こそ。返す%\も安からね。はや対面も これまでぞ。疾々河内へ帰り候へ。子方「な う暫く御待ち候へ。ワキ「げに其御叱はさ る御事なれども。弓箭とる身の習にて。 実に健気なる御有様。さりながら唯武士

忠孝の。道にも叶ひ申すべし。地「流石道 理に責められて。忠と孝との二道に。ゆき つまりては答さへ。涙ながらに是非なく も父の言葉に随ひぬ。地クリ「偈にや栴檀は ふた葉より芳ばしとこそ菊水の。流は父 に劣らじと。皆感涙に。咽びけり。シテサシ「伝 へ聞く唐土の。五丈が原に身は秋の。 地「露と消えにし孔明の。蜀を忘れぬ志。 今まのあたり湊川。シテ「身を沈むとも名 は後の。地「世に残しおく幼子の。行末頼 む心かな。クセ「其時正成。肌の守を取出 し。これは一年。都攻のありし時。下し 給へる綸旨なり。世はこれまでと思ふに ぞ汝にこれを譲るなり。我ともかくとな るならば。尊氏が代となりて。芳野の山 の奥深く。叡慮悩まし給はんは。鏡にか けて見る如し。さはさりながら正行よ。 しばしの難を遁れんと。弓張月の影暗く 家名をけがすことなかれ。シテ「父が子な

れば流石にも。地「忠義の道は兼て知れ。 討ちもらされし郎等を憐み扶持しかくれ 家のよし野の川の水清き。流絶えせぬ菊 水の。旗をふた度靡かせて。敵を千里 に。退けて叡慮を安め奉れ。実に弓取の 家の名を。惜むばかりかながらへて同じ 此世にあるならば。シテ「君の御運も高御 座。天津日嗣の動きなく。めでたき御代 に逢ふべきを今のうき身ぞ悲しき。地「弱 気を見せぬ親心。気ははり弓に。シテ「箭 たばねの。地「乱心を取直し。とる盃に わが心。汲みてや人も。知りぬらん。 ワキ「いかに申し上げ候。かゝるをりなれ

ば一指御舞ひ候へ。シテ「君は船。男舞。君 は船。臣は水。水よく船を浮む。地「う かむ涙をおしつゝみ。はやこれまでと 正成の。言葉に尽きぬ名残とて。思に沈 みたちかぬる。心を察し満一は。いざ御 立とすゝむれば。未だ若木の児桜。花さ く頃を待ちもせで。これや限の別かと。 シテ「父は暫く見送りて。地「互にさらばと いふ空に。帰れとさけぶ郭公。雲居に名 をば揚げなんと。思ひきる身は後の世に。 げに橘の芳ばしき。弓矢の家ぞ類なき。 弓矢の家ぞ類なき。