恩地満一 楠正成 正成太刀持 楠正行

ツレ詞「これは楠正成なり。さても朝敵尊 氏大挙して上洛すべき由聞し召され。急 ぎ正成に馳せ向ひ。義貞に力を合せよと の宣旨に任せ。唯今兵庫の津へ罷り下り

候。又存ずる子細の候ふ間。正行を故郷へ 帰さばやと思ひ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。ツレ「満一に正行をつれて 此方へ来れと申し候へ。トモ「畏つて候。

いかに恩地殿に申し候。若君の御共申し。 急ぎ御本陣へ御参あれとの御事にて 候。シテ「畏つて候。いかに申し上げ候。 若君の御供申して候。ツレ「いかに正行。 唯今申す事をよく/\聞き候へ。さても この度の出陣。正成討死すべき時こそ到 りたれ。それに就きて正行は満一を伴ひ。 千早に帰り命のあらん程は忠勤し。上を 敬ひ下を憐み。某が志をつぎ候へ。 又満一には正行の成長の程を頼むなり。 これをこの世の別と思ひて。急ぎ故郷へ 帰り候へ。子方「仰謹んで承り候さりな がら。弓箭の家に生れ。父の最期をよそ に見て。誰に面を向け候ふべき。たゞ/\ 召し具してたまはり候へ。ツレ「こざかし き事を申す者かな。これ皆朝廷の御為な れば。とく/\千早に帰り候へ。子方「い かに君の御為なりとも。罷り帰る事はな りがたう候。ツレ「やあか程まで父が申す

事に随はざるやと。恩愛の子を叱りけれ ば。地「正行も満一も。/\。何といふべ き言の葉も。泣く/\袖をしをりつゝ。 かしこまつたる。けしきかな畏つたるけ しきかな。ツレ詞「この上は語つて聞かせ候 ふべし。語「さても逆徒尊氏兄弟。西海よ り大軍を率ゐ。上洛すべき由叡聞に達し。 急ぎ正成に馳せ向ひ。義貞もろとも追伐 すべきとの勅諚なり。正成謹んで申し 上ぐる様は。この度逆徒罷り上る事。あ ら手といひ大軍と云ひ。労れたる官軍を 以て喰ひ留め候はん事。なか/\存じも よらず。義貞を召し帰され。今一度叡山 へ行幸なし奉りなば。必定逆徒上洛仕 り候ふべし。其時正成は糧道をたち。義 貞と内外より攻め候はんにおいては。恐 れながら御勝利疑あるべからずと。必 勝の計議を申し上ぐるといへども。坊門 殿のさゝへにて。既に防戦に定まる事。

偏に天運の極りなり。地クリ「それ日月上に 明かなれども。雲霧光を覆ふならひ。 今にはじめぬ事なれども。嘆きてもまた あまりあり。ツレサシ「良薬口に苦く。忠言耳 に逆ふといふ。地「その故事を悟り給ひ。 藤房の卿は世を遁れ。今正成が首途も引 きは返さじ武士の。ツレ「やたけの心ふし 清く。地「世をいさめんと。思ふなり。 クセ「獅子の子を生みて。三日を経る時は 数千丈の巌より。これを投げて試る。 その子獅子の気力あれば。教へざるに宙 より。はね返りて死せずといへり。況ん や正行。十歳に余りぬ。一言耳に留めつ つ。この教誡に違はざれ。われ討死と聞 くとても。嘆を留めいづくまでも。朝 敵を平げて。聖運の開けん事を思ふべ し。ツレ「たとひ逆賊日の本に。地「羽をの しはしをならすとも。命のあらんその程 は帝位を守護しわたくしの。心聊な

き跡に。汚名を残す事なかれ。老先思ふ 撫子に。かゝる涙や楠の露。 シテロンギ「時しも頃は五月雨の。古枝も茂る下 草の雫にしをる袂かな。ツレ「花散りて。 春は暮れにし桜井の。名にだにありて朽 ちせざる。シテ「石になるてふ楠の葉の。 恨も何かあまざかる。シテ「鄙人までも哀 知る。シテ「恩愛。子方「親子。シテ、ツレ、子方、三人「主 従の。地「別も今更に。涙を袖に満一が。 御酌に立ちて取りあへず。シテ「清き名を。 千代に伝へて菊水の。地「流久しき。湊 川。男舞「。 シテワカ「衆人の鏡となりて。ますらをの。 地「花橘の。匂ひぬるかな/\。ツレ「か くて時刻も移るなる。地「とく/\帰れと いさぎよき。仰にしたがふ主従は。尽き ぬ涙をひるがへし。その名も清き河内の 国へ。帰るは孝行留るは忠義の。かしこ きためしぞ。ありがたき。