平清盛 平重盛 主馬判官盛国 平宗盛 難波経遠 平貞能

経遠詞「これは平家の・士{さぶらひ}難波治郎経遠に て候。偖も此度新大納言成親卿。多田 行綱俊寛西光等と鹿が谷に会合し。平 家を亡ぼさんとの企ありしが。行綱の ・反忠{かへりちう}により其事露顕す。さるに依つて我 が君清盛公の御怒甚だしく。某妹尾太 郎兼康とともに仰を蒙り。頻りに成親卿 を責問ふといへども。人の讒言なりと陳 じて其実を告げ給はず。なほ厳しく問は ばやと思へども。小松殿の心に背かん事 を恐る。此上は我が君の御出座を待ち。重 ねての仰に随ひ。ともかくも計らはゞや と存じ候。 ワキ、立衆一声「雲の峯。昇る旭影を遮りて。嶮し く見ゆる東山。今をさかりの。暑さかな。 ワキ「そも/\我今治承の・朝{てう}に立ち。世を 平けく治めんとするに。立衆「讒者のため に妨げられ。ワキ「百年の・功{いさを}も一朝に。 立衆「水の泡とぞ。ワキ「消えなまし。地「元

より世の中は。/\。月にむら雲花に風。 妨多き習なるも。いま此時に昇る旭の。 光遮る雲あるは。実に忌まはしき・朝{あした}かな /\。経遠詞「いかに申上げ候。兼康ととも に成親を責め問ふといへども。人の讒言 なりと陳じて其実を申さず候。此上は重 ねての仰に随ひ。如何やうとも取計ふべ く{し?}と存じ候。ワキ「何と成親を責め問ふと いへども其実を告げずとな。憎き彼が心 根なれども。思ふ子細あれば暫く打ち捨 て置くべし。経遠「畏つて候。ワキ「いかに 貞能。貞能「何事にて候。ワキ「我思ふに此 度の隠謀は。成親等のみの企にあらず。 果して其源ありと思ふ。抑保元の変に は我が一門身を抛つて大乱を鎮め。又信 頼等の・叛逆{ほんぎやく}に当つても死戦して社稷を安 んじたり。其外忠勤一方ならざるに。今 法皇成親等の讒言を信じ。我が一門を亡 ぼさんとし給ふは。・憾{うらめ}しき事ならずや。

されば法皇を鳥羽殿に遷しまゐらせ。世 の動静を窺はんとす。我が心既に決せり。 明日自ら法住寺へ推参すべければ。急ぎ 其用意あるべしと。心いらだち下知なせ ば。地「貞能初め其席に。座を列ねたる人 人は。何れも驚きたりしかど。君の怒に 是非なくも。俄に檄を構へつゝ。 皆物の 具を身に着けて。明くる日を待つばかり なり/\。 盛国「浅ましの・形勢{ありさま}や。例令勘気を蒙るも。 君に仕ふる身にしあれば。其罪なきをい ひ開き。・御慮{みごころ}解くべき道なるに。・憤{いか}り迫 りて法皇の。御座をば余所に遷さんとは 物にや狂ひ給ふらん。無益の諫をなさん より。小松殿に注進し。地「早く大事を治 めんと。平の家をもり国が。・私{ひそ}かに席を立 ちいでて小松の・第{だい}に赴きぬ。 盛国詞「いかに・御内{みうち}へ案内申し候。主馬判官 盛国が。一大事を申し上げん為急ぎまか

り越して候。シテ「いかに盛国。一大事と は何事なるぞ。 盛国「さん候我が君清盛公。此度の成親等 の隠謀は其源ある事と疑はれ。・明日{みやうにち}・親{みづか} ら法住寺へ推参し。法皇を鳥羽に遷し奉 らんと御怒強く。俄に用意仰せ出されて 候。余りに浅ましき御振舞と存じ。諫め 申さんとは思へども。所詮我等如き者の 言葉を用ゐらるべき気色なし。お家の一 大事と存じ候ふ程に。急ぎ御注進仕り候。 シテ「何と怒に堪へ兼ねて・上{かみ}を犯さんとし 給ふとな。由々しき大事なり。某・直{たゞち}に馳 せ参じ御諫め申さうずるにて候。実にや 人心。怒を含む其時は。そが真心を。奪 はるとかや。我が父も寄る年波の悲しさ は。怒の風に動かされ。心の楫を失うて。 舟傾かん有様は運も傾く時なるか。地「平 家を守る神あらば。父の心を飜し。家門 を全うし給へよ。実にあぢきなき浮世か

な。シテ詞「いかに誰かある。貞能「御前に候。 シテ「貞能にてあるか。重盛が参りたる由 を申し上げ候へ。貞能「畏つて候。いかに 申し上げ候。小松殿・御出{おんいで}にて候。宗盛「い かに小松殿。明日は御出馬あらんとて。 君をはじめ皆物の具を着け。大事を議す る場所なるに。お装束にて。御対面は如 何あるべきぞ。シテ「大事とは何事ぞ。某 いまだ朝廷に・御{おん}大事あるを承らず。定 めて・私事{わたくしごと}なるべし。もし・逆臣{げきしん}ありて朝 廷に手向はゞ。某大将の任なれば。 其敵の誰かれを問はず役目の為に戦ふべ し。然るにいま世は静かにして。逆臣ある にあらず。私の事を大事なりとし。大臣 の御身を以て事々しく物の具をつけ給ふ は。以ての外の事ならずや。然るを御身 等・一言{いちごん}の諫はせずして。反つて某の装束 を咎むるは。緩怠至極の事どもなり。よし なき指図は片腹痛しと。地「責むる言葉は

宗盛が。胸に応へて赤面す。清盛これをも れ聞きて。恥かしとや思ひけん。衣をとり て身に覆ひ。物の具をこそ隠しけれ。重 盛悠々と進み出で清盛の前に平伏す。 ワキ「いかに重盛。我行綱の・告{つげ}西光が申し 状に因つて。此度の隠謀を察するに。成親 如きは枝流にして。実は其源ありと思ふ によリ。世の動静を窺はん為。法皇を鳥 羽に移し参らせんとす。今其用意申し附 けたれば。其旨を心得候ふべし。シテ「恐 ある事にて候へども。先づ御心を鎮めて 重盛が申す事を聞し召し下さるべし。重 盛・倩{つら/\}今の・形勢{ありさま}を見るに。家運の将に衰 へんとするを知る。抑世に四恩ある中 に。皇恩を以て第一とす。我が家はもと 葛原親王の末流なれども。・一度{ひとたび}降つて人 臣に列なり。平将軍貞盛公の・功{いさを}ありしだ も受領に過ぎず。刑部卿忠盛公の昇殿を 聴されし時は。・万人{まんじん}唇を飜して驚きた

りとこそ承れ。然るに父君はわが家た めしなき人臣の位を極め。不肖の重盛す ら蓮府槐門の位に昇り。・宗族{そうぞく}悉く公卿に 列し。田園天下に半す。一門かゝる栄花 に浮むも。これ皆皇恩ならずや。これを 以て彼を思ふに。他人の羨み・疾{にく}むは・謂{いはれ}な きにあらず。然るも朝威の光に奸人捕 へられたれば。・頓{やが}て罪科も定まるべきに。 恩を忘れ上に迫らんとし給ふは。平の家 の礎も。・動{ゆる}ぐ時節の到りしか。嗚呼天 なるかな・命{めい}なるかな。もし今にして御心 を飜し給ふ事の成り難くは。重盛の刃は 誰にか向くべき。しかず速に死を賜は らんには。父の姿を拝するも。これ限か と泣き伏せば。 地「一座に在りし人々は。冑の袖を濡し つゝ其真心に感動す。地クリ「それ日の本 の教には。忠孝の道を本とす。譬ひ・千筋{ちすぢ} の・岐{ちまた}ありとも。などか其道に。迷ふべき。

シテサシ「然れども其・二道{ふたみち}を。二つながらに履 まん事。地「今此時を何とかせん。かの源 の義朝が。大義の為に其父の為義を討ち し時は。シテ「情を知らぬ・武士{ものゝふ}と。地「思 ひし事も今更に身につまされてあはれ なり。クセ「其時重盛。一門将士に申すや う。我が身苟も。左大将に昇りしは。 皇恩厚き故なれど父の恵のなかりせば。 いかでかかゝる世に遇はん。然れば今 の時にして恩義の高きすべらぎに。忠 を尽せば孝ならず。慈愛の深きかぞいろ に。孝を致せば忠ならす。さて何とせん 重盛が・目前{まのあたり}なる二道に進まんとして進み 得ず。又退かん・方{かた}もなく心乱るゝばかり なり。シテ「さるにても今此まゝになりゆ かば。地「先に情をしら旗の。義朝とな りやせん。所詮此世は仮の宿。我は平の。 旗じるし。赤き心を顕さん。御身等父に 随ひて。院に赴く心ならば。わが首の落

つるを見。其後に行くべしと。・慨{なげ}きに時 も夕暮の。雨にうたれし羽抜鳥。・塒{むぐら}に 戻る風情にて帰るぞあはれなりける。 ワキ「やあいかに重盛。我あやまてり/\ 暫く・駐{とゞま}り候へ。シテ「何と御悔悟ありしと なあら有難や候。ワキ「先此方へ来り候 へ。我今汝が切なりし諫を聞くに。忠孝 厚きその・赤心{まごころ}。清盛が胸に応へ慙愧に堪 へず。我奸人を悪むの余り。仮にも上を 疑ひしは。思へば罪の深かりし。今は迷 の夢覚めぬ。院の御詫よしなに執りなし 呉れよ。実にや麒麟も老いぬれば。終には 駑馬に劣るとかや。此身も既に老の坂。 今は重盛に世を譲り。涼しき風やふく原 の。清き・海辺{うみべ}に遊ぶべし。シテ「重盛が 愚なる言葉を捨て給はず。・御心{みごころ}を改め られ候ふは。何と申し上ぐべき言葉も なく唯感涙に咽ぶばかりに候。院のお詫 は重盛身に替へて引受け候はん。御心易

く思し召され候へさりながら。重盛に世 を譲らんとの。俄の御沙汰は迷惑仕り候。 この儀は御とまりあれかしと存じ候。 ワキ「・辞{いや}俄に思ひたちし事にもあらず。予 ての望・偶{たま/\}時の到りしなり。心を置かず・代{よ} を継ぎて。我に安堵を与ふべしと。地「や がて席をも改めて。解きくつろぎし鎧蝶。 酒宴を開き・諸人{もろびと}を。慰めつ・労{ねぎら}ひつ。小松 の・枝葉{えだは}しげもりや。大夫の松と祝ひけり。 親子の情深みどり。盛国「いかに小松殿 に申し上げ候。かゝる折なれば一さし御

舞ひ候へ。シテ「父の情や。ふかみどり。 男舞、地「かくて集ひし人々は。/\。思の外 の首尾を見て。喜の眉を開きつゝ。皆 ・万歳{ばんぜい}とぞ唱へける。シテ「さて御暇給はり ければ。地「重盛人々に申すやう。召に随 ひて速に。集ひし事ぞ喜ばしき。今は事 無くをさまりぬ。・弓箭{ゆみや}を袋に息ふべし。 後又ことなきに馴るゝなと。智仁備はる 言の葉に。喜び合うて人々は。喜び合う て人々は。各家路に帰りけり。