主馬判官盛久 土屋三郎 太刀取

シテ詞「如何に土屋殿に申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。シテ「唯今関東に下 りなば。これが限りなるべし。清水の方へ 輿を立てゝ賜はり候へ。ワキ「それこそ易 き御事。如何に面々。東山の方へ輿を立 てられ候へ。 シテサシ「南無や大慈大悲の観世音さしも草。 さしも畏き誓の末。一称一念なほ頼あ り。ましてや多年知遇の御結縁空しから んや。あら御名残惜しや。一セイ「いつか又。 清水寺の花盛。地「帰る春なき。名残かな。 シテ「音に立てぬも音羽山。地「瀧つ心を。 人知らじ。 シテサシ「見渡せば柳桜をこき交ぜて。錦と 見ゆる故郷の空。地「又いつかはと思出

の。限なるべき東路に。思ひ立つこそ名 残なれ。シテ「我なまじひに弓馬の家に生 れ。世上にかくれなき身とて。地「思はざる 外の旅行の道。関の東に赴けば。跡白河 を。行く波の。いつ帰るべき。旅ならん。 下歌「こゝは誰をか松坂や四の宮河原四の 辻。上歌「これやこの。行くも帰るも別れ ては。/\。知るも知らぬも。逢坂の関 守も今の我をばよも留めじ。勢田の長橋 うち渡り。立ち寄る影は鏡山。さのみ年 経ぬ身なれども。衰は老曽の森を過ぐ るや美濃尾張。熱田の浦の夕汐の道をば 波に隠されて。廻れば野辺に鳴海潟又八 橋や高師山また八橋や高師山。 ロンギ地「汐見坂橋本の。浜名の橋をうち渡

り。シテ「旅衣。かく来て見んと思ひきや。 命なりけり小夜の中山はこれかとよ。 地「変る淵瀬の大井川。過ぎ行く浪もう つの山。シテ「越えても関にきよ見潟。 地「三保の入海田子の浦うち出でて見れ ば真白なる。雪の富士の嶺箱根山。猶明 け行くや星月夜早鎌倉に着きにけりはや 鎌倉に着きにけり。 シテサシ「夢中に道あつて塵埃を隔つ。実にや そことも知らざりし。山を越え水を渡つ て。此関東に着きぬ。百年の栄花は塵中 の夢。一寸の光陰は沙裏の金。実にや故 郷は雲居のよそ。千代もと契りし友人も。 変る世なれや我一人。鎌倉山の雲霞。 実にかゝる身の習かや。詞「かくてながら へ諸人に面をさらさんより。天晴疾う斬 らればやと思ひ候。 ワキ詞「あら痛はしや盛久の独言を仰せ候。 如何に申し候。土屋が参りて候。シテ詞「土

屋殿と候ふや此方へ御入り候へ。ワキ詞「御 下向の由を披露申して候へば。急ぎ誅し 申せとの御事にて候。シテ「唯今も独言に 申しゝ如く。かくてながらへ諸人に面を 曝さんよりも。天晴疾う斬らればやとの 念願。さては早叶ひて候ふよ。さて最期 は唯今にて候ふか。ワキ「いや御最期は此 暁か。然らずは明夜かと仰せいだされ て候。シテ「さては暫くの時刻にて候ふ よ。さても此程土屋殿の御芳志。申すも 中々愚なり。又無からん跡一辺の念仏 をも御回向に預らば。二世までの御芳 志たるべし。詞「我此年月清水の観世音を 信じ。毎日彼の御経を怠る事なし。さりな がら今日はいまだ読誦申さず候ふ程に。 御暇を賜はり候へ。彼の御経を読誦申し たく候。ワキ「それこそ有難う候へ。土屋 もこれにて聴聞申さうずるにて候。 シテ「有難や大慈大悲は薩〓{土へんに垂}の悲願。定業

亦能転は菩薩の直道とかや。願はくは無 縁の慈悲を垂れ。我を引導し給へ。今生 の利益もし欠けば。後生善所をも誰か頼 まん。二世の願望もし空しくは。大聖の 誓約豈虚妄にあらずや。或遭王様難苦臨刑 欲寿終。念彼観音力刀尋段々壌。 ワキ詞「有難や此御経を聴聞申せば。御命も 頼もしうこそ候へ。シテ「実によく御聴聞 候ふものかな。此文と謂つぱ。たとひ人王 難の災に逢ふといふとも。その剣段々に 折れ。ワキ「亦衆怨悉退散といふ文は。射 る矢も其身に立つまじければ。シテ「実に 頼もしやさりながら。全く命のために 此文を誦するにあらず。二人「種々諸悪趣 地獄鬼畜生。生老病死苦以漸悉令滅。 地下歌「此文の如くは。諸の悪趣をも三悪 道は遁るべしや有難しとゆふ露の。命は 惜まず唯後生こそは悲しけれ。 上歌「昔在霊山の。御名は法華一仏。今

西方の主又。娑婆示現し給ひて我等が為 の観世音。三世の利益同じくは。かく刑 戮に近き身の。誓にいかで洩るべきや。 盛久が終の道よも闇からじ頼もしや。 シテ詞「あら不思議や。少し睡眠の内に。新 なる霊夢を蒙りて候ふは如何に。あら有 難や候。 ワキ「既に八声の鶏鳴いて。御最期の時節 唯今なり。早々御出で候へとよ。シテ詞「待 ち設けたる事なれば。左には金泥の御経。 右には念の珠の緒の。命も今を限な れば。これぞ此世を門出の場に。足よわ よわと立ち出づる。ワキ「武士前後を囲み つゝ。これぞ別の鶏の声。シテ「鐘も聞うる 東雲に。ワキ「牢より籠の輿に乗せ。シテ「由 比の汀に。ワキ「急ぎけり。地次第「夢路を 出づる曙や。/\後の世の門出なるら ん。 ワキ「さて由比の汀に着きしかば。座敷を

定め敷皮しかせ。早々直らせ給ふべし。 シテ詞「盛久やがて座に直り。清水の方は其 方ぞと。西に向ひて観音の。御名を称へ て待ちければ。ワキツレ「太刀取後にまはりつ つ。称念の声の下よりも。太刀振り上ぐ ればこは如何に。御経の光眼に塞がり。 取り落したる太刀を見れば。二つに折れ て段々となる。こはそも如何なる事やら ん。シテ「盛久も思の外なれば。唯茫然と あきれ居たり。ワキ「いや/\何をか疑ふ べき。此程読誦の御経の文。シテ「臨刑欲 寿終。ワキ「念彼観音力。シテ「刀尋。ワキ「段 段壌の。地「経文新たにくもりなき剣段々 に折れにけり。末世にては無かりけり。あ ら有難の御経や。やがて此由聞し召し。 急ぎ御前に参れとの御使度々に重なれ ば。召に随ひ盛久は。鎌倉殿に参りけ り/\。物着 ワキ詞「如何に盛久御前にて候。君此暁不

思議なる御霊夢の御告あり。盛久も若し 夢や見けるとの御事にて候。シテ詞「何を か隠し申すべき。今夜不思議の御霊夢を 蒙りて候。ワキ「さらば其霊夢の様を御前 にて真直に申し上げられ候へ。シテ「畏つ て候。 シテクリ「それ不取正覚の御誓。今もつて始な らず。地「過去久遠の大悲の光いづく不到 の所ならん。シテサシ「然るに我此光陰を頼 み。地「日夜朝暮に怠らず。彼の御経を修読 せしに。取り分き此時節刑戮に近き身を 思つて。片時怠る事もなく。クセ「初夜よ り後夜の。一点まで。地「蕭然として座し たりしに。クセ「六窓いまだ明けざるに。 耿然たる一天虚明なる内に思はずも。八 旬にたけ給ひぬと見えさせ給ふ老僧の。 香染の袈裟を懸け水晶の珠数を爪ぐり。 鳩の杖にすがりつゝ。妙聞たゞしき御声 にて。我は洛陽東山の。清水あたりよ

り汝が為に来りたり。本より大慈大悲の。 誓願などか空しからん。唯。一音なりと ても。我を念ずる時節の王難の災は遁る べし。シテ「況んや汝年月。地「多年の誠を 抽んでて。発心人に超えたり。心安く思 ふべし我汝が。命に代るべしと宣ひて 夢は即ち覚めにけり。盛久貴く。思ひて。 歓喜の心限なし。 ロンギ地「頼朝これを聞し召し。此暁の御 夢想も。同じ告ぞとあらたなる。御信感は 限なし。シテ「其時盛久は。夢の覚めたる 心地して。感涙をとめかね御前を罷り立 ちければ。地「如何に盛久暫しとて。御簾 を上げて召さるれば。シテ「せんかくたもな き盛久が。地「命は千秋万歳の春を祝ふぞ と。御盃を下さるれば。シテ「種は千代ぞ と菊の酒。地「花を受けたる袂かな。 ワキ詞「如何に盛久。盛久は平家譜代の侍 武略の達者。殊には乱舞堪能の由聞し召

し及ばれたり。一年小松殿。北山にて茸 狩の遊路の御酒宴に於て。主馬の盛久一 曲一奏の事。関東までもかくれなし。殊 更これは悦のをりなれば。たゞ一指と の御所望なり急いで仕り候へ。シテ詞「有難 し/\。得がたきは時。去りがたきは貴 命なり。盛久かゝる時節に逢ふ事。世以 てためし有るべからず。治まり靡く時な

れや。一天四海の内のみか。人の国まで 日の本の。唐土が原も此所。男舞 地キリ「酒宴半の春の興。/\。曇らぬ日影 のどかにて。君を祝ふ千秋の鶴あ岡の。 松の葉の散り。失せずして正木のかづら。 シテ「長居は恐あり。地「長居は恐あり と。罷り申し仕り。退出しける盛久が。 心の内ぞゆゝしき。/\。