日下左衛門の妻 従者 里人 日下左衛門

ワキ次第(三人)「古き都の道なれや。/\。難波の 浦を尋ねん。ワキ詞「かやうに候ふ者は。都 さる御方へ仕へ申す者にて候。又これに 御座候ふ御事は。頼み奉り候ふ人の若 子の御乳の人にて御座候。御里は津の国 日下の里にて候ふが。今一度御下ありた る由仰せ候ふ程に。此度我等御供申し。 淀より舟にのせ申し。唯今難波の浦へと 急ぎ候。道行三人「淀舟や。水野の原の曙に。 /\。影も残りて有明の。山本かすむ。 水無瀬川渚の森をよそに見て。なほ行末 は渡辺や。大江の岸もうつり行く。浪も 入江の里つゞく。難波の浦に着きにけ

り/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。これははや津の国 日下の里に御着にて候。これに暫く御待 ち候へ。日下の左衛門殿を尋ね申さうず るにて候。此あたりの人の渡り候ふか。 狂言「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「此あたりに 日下の左衛門殿と申す人の渡り候ふか。 狂言「もとは此処に御座候ひしが。散々 御無力にて今は此処には御座なく候。 ワキ「あら何ともなや候。此由をやがて申 さうずるにて候。いかに申し候。左衛門 殿を尋ね申して候へば。今は此処には御 座なき由申し候。ツレサシ「げにや家貧にして

は親知すくなく。賎しき身には故人疎し とか申すなれば。身には限らぬ習なれど も。余りにあさましき有様かな。詞「さり ながら様々契り置きし事有り。此処に暫 く逗留し。かの人の行方を尋ねばやと思 ひ候。ワキ「げに/\仰せ尤にて候。此処 に暫く御逗留候へ。猶々御行方を委しく 尋ね申さうずるにて候。いかに以前の人 の渡り候ふか。此浦に如何なる面白き事 は候はぬか。都の人に見せ申したく候ふ よ。狂言「さん候この浦に浜市の候。色 色の物を売り買ひ候ふ中に。若き男の此 難波の芦を刈りて売り候ふが。色々に戯 れごとを申して面白き者にて候ふ間。名 草の事にて候ふ程に皆々買ひ取り候。暫 く御待ち候ひてかの者を御覧候へ。ワキ「あ らうれしや候。さらばかの者を待つて見 うずるにて候。 シテ、サシ一声「足引の山こそ霞め難波江に。向ふ

は波の淡路潟。げにや所から異浦々の気 色までも。眺につゞく難波舟の。出で浮 びたる朝ぼらけ。心も澄める面白さよ。 一セイ「難波なる。見つとはいはじかゝる身 に。地「我だに知らぬ面わすれ。カケリ「。 シテ「立ち舞ふ市の中々に。地「隠れ処はある ものを。 シテサシ「げに受けがたき人界を。たま/\受 くる身なりせば。栄花の家には住みもせ で。かゝる貧家にお生るゝ事。前の世の戒 行こそ拙けれ。今とても為す業もなき身 の行方。昨日と過ぎ今日と暮れ。明日又 かくこそ荒磯海の。浜の真砂の数ならぬ。 此身命をつがんとて。あだなる露の草の 葉に。芦刈人となりたるなり。地下歌「何と かならん難波江の。浦に出で里に雪のさ むき日をもいとはず。上歌「潮垂るゝ我が 身の方はつれなくて。/\。異浦見れば夕 煙。うらめしや終に身を。立てかねてこ

そ賎しけれ。芦田鶴の。雲井のよそに眺 めこし。月の下芦刈り持ちて。露をも運 ぶ袖の上なほありがほの心かななほあり がほの心かな。 ワキ詞「いかにこれなる人に申すべき事の 候。シテ「此方の事にて候ふか何事にて候 ふぞ。ワキ「見申せば色々の物を売り候ふ 中に。難波の芦の御売り候ふ事やさしう こそ候へ。シテ「さん候此あたりにては 売る者も買ふ人も。唯何となくあつかふ 所に。都の人とて難波の芦を御賞翫こ そ。返す%\もやさしけれ。我も昔は難 波津の。名におふ古き都人の。縁の露の おちぶれたる。身は枯芦の。色なくとも。 よしとて召され候へ。ワキ「あら面白や 候。さてよしと芦とは同じ草にて候ふ か。シテ「さん候譬へば薄ともいひ。穂 に出でぬれば尾花ともいへるが如し。 ワキ「さては物の名も所によりて変るよな

う。シテ詞「なか/\の事この芦を。伊勢人 は浜荻といひ。ワキ「難波人は。シテ「芦と 云ふ。地「むつかしや。難波の浦のよしあ しも。/\。賎しき海士はえぞ知らぬ。 唯世を渡る為なれば仮の命つがんとて。 芦を取り運びて此市にいづる芦数に。お あし添へと召されよやおあし添へて召さ れよ。露ながら難波の芦を刈り持ちて。 夜は月をも運ぶなりや。暇をし。夕汐の 昼の中に召されよや昼の中に召されよ。 ワキ詞「如何に申し候。さて御津の浜とは何 くにて候ふぞ。シテ「忝くも御津の浜の御 在所はあれにて候。ワキ「不思議やな何と て忝きなどとは仰せ候ふぞ。シテ「あら 何ともなや。さらば何とて御津の浜とは 御尋ね候ふぞ。忝くも仁徳天皇。此難波 の浦に大宮造し給ふ。御津と書いて御津 の浜とは申すなり。ワキ「げに面白き謂か な。皇居なりつる浦なれば。御津の浜と

は理なり。シテ詞「波涛海辺の大宮なれば 漁村に灯す篝火までも。禁裏雲居の御火か と見えて。上雲上の月卿より。下万民 の民間までも。有難かりし恵ぞかし。や。 笠ノ段「あれ御覧ぜよ御津の浜に。網子調ふ る網船の。えいや/\と寄せ来るぞや。 地「名にし負ふ難波津の。/\。歌にも大 宮の。内まで聞ゆ網引すと網子調ふる。 海士の呼声とよみおける。古歌をも引く 網の。目の前に。見えたる有様あれ御覧 ぜよや人々。シテ「面白や心あらん。地「面 白や心あらん。人に見せばや津の国の。 難波わたりの春の景色。おぼろ舟こがれ 来る沖の鴎磯千鳥。つれだちて友よぶや 海士の小舟なるらん。シテ「雨に着る。 地「雨に着る。田簑の島もあるなれば。露 も真菅の笠はなどか無からん。ロンギ「難波 津の春なれや。シテ「名におふ梅の花笠。 地「縫ふてふ鳥の翼には。シテ「鵲も有明

の。地「月の笠に袖さすは。シテ「天つ乙女 の衣笠。地「それは乙女。シテ「これはま た。地「難波女の。/\。かづく袖笠ひぢ 笠の。雨の芦辺も。乱るゝかたを波あな たへざらりこなたへざらり。ざらり/\ ざら/\ざつと。風のあげたる。古簾。 つれ%\もなき心おもしろや。ツレ詞「いか に誰かある。ワキ詞「御前に候。ツレ「あの芦 売る人に。其芦一本持ちて来れと申し候 へ。ワキ「畏つて候。いかに申し候。あの お輿の内へ。其芦一本持ちて御まゐりあ れと仰せ候。シテ「畏つて候。さらば此芦を 参らせられ候へ。ワキ「いや唯直に参らせ 候へ。あら不思議や。今の芦売る男の。 御姿を見参らせ。これなる所へ隠れて候 ふは。何と申したる御事にて候ふぞ。 ツレ「今は何をか包み参らせ候ふべき。唯 今の芦売る人は。わらはが古人にて候。 これは夢かやあらあさましや候。ワキ「言

語道断の御事。さらに苦しからぬ事にて 候。某やがて参り御供申し候ふべし。 御心安く思し召され候へ。ツレ「いや暫 く。皆々御いであらば。定めて恥ぢ参ら せられ候ふべし。わらはひそかに行き。 かくと申さばやと思ひ候。ワキ「げにこれ は尤にて候。さらば御出あらうずるに て候。 ツレ「如何に古人。わらはこそこれまで 参りて候へ。行末かけし玉の緒の。結ぶ 契のかひありて。今は世にある様なれば。 はる%\尋ね参りたるに。何くへ忍ばせ 給ふらん。とく/\出でさせ給ひ候へ。 シテ「これは唯夢にぞあるらん現ならば。 よその人目も如何ならんと。思ひ沈める ばかりなり。ツレ「かくは思へど若しは又。 人の心は白露の。起き別れにしきぬ%\ の。妻や重ねし難波人。シテ詞「芦火たく屋 は煤垂れて。おのが妻衣それならで。又

は誰にか馴衣。君なくて悪しかりけりと 思ふにぞ。いとゞ難波の浦は住みうき。 ツレ「あしからじ。よからんとてぞ別れに し。何か難波の。浦は住みうき。シテ「げ にや難波津浅香山の。道は夫婦の媒な れば。地「さのみは何をか包井の隠れて住 める小屋の戸を。押しあけて出でながら。 面なのわが姿や。三年の過ぎしは夢なれ や。現にあふの松原かや。木蔭に円居し て難波の昔かたらん。 ワキ詞「かゝるめでたき御事こそ候はね。や がて都へ御供あらうずるにて候。先々鳥 帽子直垂をめされ候へ。物着地クリ「それ たかき山ふかき海。妹背恋路の跡ながら。 ことに難波の海山の。処からなる情と かや。シテサシ「あるは男山の昔を思ひ出で て。地「女郎花の一時をくねると云へど も。いひ慰むる言の葉の。露もたわゝに 秋萩の。本の契の消えかへり。つれなか

りける命かな。シテ「さればかほどに衰へ て。地「身を羽束師の森なれども。言葉の 花こそ便なれ。クセ「難波津に。さくやこ の花冬ごもり。今は春べと咲くや。この 花と栄え給ひける。仁徳天皇と。聞えさ せ給ひしは難波の御子の御事。又浅香山 の言の葉は。采女の。盃とりあへぬ。 恨をのべし故とかや。此二歌は今までの。 歌の父母なる故に。代々にあまねき花色 の。言の葉草の種とりて。我等如きの手 習ふ初なるべし。然れば目に見えぬ鬼神 をもやはらげ。武士の心なぐさむる。夫 婦の情知る事も今身の上に知られたり。 シテ「津の国の。難波の春は夢なれや。 地「芦の枯葉に風渡る。波の立居のひまと ても浅かるべしやわたづみの。浜の真砂 は。よみ尽し尽すとも。此道は尽きせめ や。唯玩べ名にしおふ。なにはの恨うち忘 れて。ありし契に帰りあふ縁こそ嬉しか

りけれ。ワキ詞「いかに申し候。めでたう一 さし御舞ひ候へ。シテ「さらばそと舞はう ずるにて候。今は恨も波の上。地「立ちま ふ袖の。かざしかな。男舞「。キリ「浮寐忘るゝ 難波江の。/\。芦の若葉を越ゆる白浪。 月も残り。花も盛に津の国の。こやの住 居の冬ごもり。今は春べと都の空に。伴 ひ行くや。大伴の。御津の浦わの見つゝ を契に。帰る事こそ。嬉しけれ。