赦免の使 僧都俊寛 丹波少将成経 平判官康頼

ワキ詞「これは相国に仕ヘ申す者にて候。 さても此度中宮御産の御所の為に。非常 の大赦行はるゝにより。国々の流人赦免 ある。中にも鬼界が島の流人の内。丹波 少将成経。平判官康頼二人赦免の御使 をば。某承つて候ふ間。唯今鬼界が 島へと急ぎ候。 成経、康頼、次第「神を硫黄が島なれば。/\。願も 三つの山ならん。サシ「これは九州薩摩 潟。鬼界が島の流人の内。成経「丹波の少 将成経。康頼「平判官入道康頼。二人「二人 が果にて候ふなり。われら都にありし時。 熊野参詣三十三度の。歩をなさんと立願

せしに。其半にも数足らで。かゝる遠流 の身となれば所願も空しく早なりぬ。せ めての事の余りにや。此島に三熊野を勧 請申し。都よりの道中の。九十九所の王 子まで。下歌「こと%\く順礼の。神路に 幣をさゝげつゝ。上歌「こゝとても。同じ 宮居と三熊野の。/\。浦の浜木綿ひと へなる。麻衣のしをるゝを唯其まゝの白 衣にて。真砂を取りて散米に。白木綿花 の御祓して神に歩を。運ぶなり神に歩を 運ぶなり。 シテ一セイ「後の世を。待たで鬼界が島守と。 地「なる身の果の。闇きより。シテ「闇き。

道にぞ。入りにける。サシ「玉兎昼眠る雲 母の地。金鶏夜宿す不萌の枝。寒蝉枯木 を抱きて。鳴き尽して頭をめぐらさず。 俊寛が身の上に知られて候。康頼詞「あれ なるは俊寛にてわたり候ふか。これまで は何の為の御出にて候ふぞ。シテ詞「早く も御覧じとがめたり。道迎の其為に酒を 持ちて参りて候。康頼「そも一酒とは竹葉 の。此島にあるべきかと。立ち寄り見れ ば。や。これは水なり。シテ「これは仰に て候へども。それ酒と申す事は。もとこ れ薬の水なれば。〓{レイ:酉へんに霊}酒にてなど無かるべ き。康頼成経「げに/\これは理なり。頃 は長月。シテ「時は重陽。康頼成経「所は山路。 シテ「谷水の。三人「彭祖が七百歳を経し も。心を汲み得し深谷の水。地歌「飲むか らに。げにも薬と菊水の。/\。心の底 も白衣の。ぬれてほす。山路の菊の露の まに。我も千年を。経る心地する。配所

はさてもいつまでぞ。春すぎ夏たけて又。 秋暮れ冬の来るをも。草木の色ぞ知らす るや。あら恋しの昔や。思ひでは何につ けても。あはれ都にありし時は。法勝寺 法成寺たゞ喜見城の春の花。今はいつし か引きかへて。五衰滅色の秋なれや。落 つる木の葉の盃。のむ酒は谷水の。流る るも又涙川水上は。我なるものを。物思 ふ時しもは。今こそ限なりけれ。 ワキ「早船の。心にかなふ追風にて。舟子 やいとゞ。勇むらん。詞「いかにこの島に 流され人の御座候ふか。都より赦免状を 持ちて参りて候。急いで御拝見候へ。 シテ詞「あら有難や。候。やがて康頼御覧候 ヘ。康頼「何々中宮御産の御祈の為に。非 常の大赦行はるゝにより。国々の流人赦 免ある。中にも鬼界が島の流人の中。丹 波の少将成経。平判官入道康頼二人赦免 ある所なり。シテ「何とて俊寛をば読み落

し給ふぞ。康頼「御名はあらばこそ。赦免 状の面を御覧候へ。シテ「さては筆者のあ やまりか。ワキ「いや某都にて。承り候 ふも。康頼成経二人は御供申せ。俊寛一 人をば此島に残 し申せとの御事 にて候。 シテ「こはいかに 罪も同じ罪。配 所も同じ配所。 非常も同じ大赦 なるに、一人誓 の網に漏れて。 沈み果てなん 事は如何に。 クドキ「此ほどは三人一処に有りつるだ に。さも恐ろしく凄ましき。あら磯島に たゞ一人。離れて海士の捨草の。波の藻 屑のよるべもなくてあられんものか浅ま

しや。歎くにかひも渚の千鳥。泣くばか りなる有様かな。 地クセ「時を感じては。花も涙をそゝぎ。別 を恨みては。鳥も心を動かせり。もとよ りも此島は。鬼界が島と聞くなれば。鬼 ある処にて今生よりの冥途なり。たとひ 如何なる鬼なりと此あはれなどか知らざ らん。天地を動かし鬼神も感をなすなる

も人のあはれなるものを。此島の鳥獣 も鳴くは我をとふやらん。シテ「せめて 思の余りにや。地「さきに読みたる巻物 を。又引き開き同じあとを。繰り返し /\。見れども/\たゞ。成経康頼と。 書きたる其名ばかりなり。もしも〓{ライ:田の三重ね}紙に やあるらんと巻きかへして見れども。僧 都とも俊寛とも書ける文字は更になしこ は夢かさても夢ならば。さめよ/\と現 無き。俊寛が有様を見るこそあはれなり けれ。 ワキ「時刻うつりて叶ふまし。成経康頼 二人ははや。御船に召され候へとよ。 康頼成経「かくてあるべき事ならねば。よその 歎きをふりすてゝ。二人は船に乗らんと す。シテ詞「僧都も船に乗らんとて。康頼の 袂にとりつけば。ワキ「僧都は船に叶ふま じと。さも荒けなく言ひければ。シテ詞「う たてやな公の私といふ事のあれば。

せめては向の地までなりとも。情に乗せ て給び給へ。ワキ「情も知らぬ舟子ども。 櫨櫂をふりあげ打たんとすれば。シテ「さ すが命の悲しさに。又立ち帰り出船の。 詞「纜に取りつき引きとむる。ワキ「舟人と もづな押し切つて。船を深みに押し出 す。シテ「せん方波にゆられながら。たゞ 手を合はせて船よなう。ワキ「船よといへ ど乗せざれば。シテ「力及ばず俊寛は。 地「もとの渚にひれふして。松浦佐用姫 も。我が身にはよも増さじと。声も惜ま ず泣き居たり。 ツレワキ三人ロンギ「痛はしの御事や。我等都に上

りなばよき様に申し直しつゝ。やがて 帰洛はあるべし御心づよく待ち給へ。 シテ「帰洛を待てよとの。呼ばはる声も幽 なる。頼を松蔭に。音を泣きさして聞き ゐたり。三人「聞くやいかにとゆふ波の。 みな声々に俊寛を。シテ「申し直さば程も なく。三人「必ず帰洛あるべしや。シテ「こ れは誠か。三人「なか/\に。シテ「頼むぞ よたのもしくて。地「待てよ/\といふ声 も。姿も。次第に遠ざかる沖つ波の。幽 なる声絶えて船影も人影も消えて見え ずなりにけりあと消えて見えずなりに けり。