従者 人丸 悪七兵衛景清 里人

トモツレ次第「消えぬ便も風なれば。/\。露の 身いかになりぬらん。ツレ「これは鎌倉亀 が江が谷に。人丸と申す女にて候。さて も我父悪七兵衛景清は。平家の味方た るにより。源氏に憎まれ。日向の国宮崎 とかやに流されて。年月を送り給ふなる。 いまだ習はぬ道すがら。物うき事も旅の ならひ。また父ゆゑと心づよく。二人下歌「思 寝の涙かたしく。草の枕露をそへていと 繁き袂かな。上歌「相模の国を立ちいで て。/\。誰にゆくへを遠江げに遠き江

に旅舟の。三河にわたす八橋の。雲居の 都いつかさて仮寝の夢に馴れて見ん仮寝 の夢に馴れて見ん。 トモ詞「やう/\御急ぎ候ほどに。これは 早日向の国宮崎とかやに御着にて候。こ こにて父御の御行方を御尋あらうずるに て候。 シテ「松門独閉ぢて。年月を送り。みづ から。清光を見ざれば。時の移るをも。 弁へず。暗々たる庵室に徒らに眠り。衣 寒暖に与へざれば。膚は〓骨{大漢和45276:げう}と衰へたり。

地歌「とても世を。背くとならば墨にこそ。 /\。染むべき袖の。あさましや窶れは てたる有様を。我だに憂しと思ふ身を。 誰こそありて憐の憂きをと・ぶ{ム}らふ。よ しもなし憂きをと・ぶ{ム}らふよしもなし。 ツレ「ふしぎやなこれなる草の庵古りて。 誰住むべくも見えざるに。声珍らかに聞 ゆるは。もし乞食のありかかと。軒端も 遠くみえたるぞや。シテ詞「秋きぬと目には さやかに見えねども。風の音信いづちと も。ツレ「知らぬ迷のはかなさを。しばし 休らふ宿もなし。シテ詞「げに三界は所なし たゞ一空のみ。誰とかさして言問はん。 又いづちとか答ふべき。トモ詞「いかに此藁 屋の内へ物問はう。シテ「そも如何なるも のぞ。トモ「流され人の行方や知りてあ る。シテ詞「流され人にとりても。苗字をば 何と申し候ふぞ。トモ「平家の侍悪七兵 衛景清と申し候。シテ「げにさやうの人を

ば承り及びては候へども。本より盲目 なれば見る事なし。さもあさましき御有 様。承りそゞろにあはれを催すなり。 くはしき事をばよそにて御尋ね候へ。 トモ「さては此あたりにては御座なげに 候。これより奥へ御出あつて尋ね申され 候へ。 シテ詞「ふしぎやな唯今の者をいかなる者 ぞと存じて候へば。この盲目なるものゝ 子にて候ふはいかに。我一年尾張の国熱 田にて遊女と相馴れ一人の子をまうく。 女子なれば何の用に立つべきぞと思ひ。 鎌倉亀が江の谷の長に預けおきしが。馴 れぬ親子を悲しみ。父に向つて言葉をか はす。地歌「声をば聞けど面影を見ぬ盲目 ぞ悲しき。名のらで過ぎし心こそなかな か親の。絆なれなか/\親の絆なれ。 トモ詞「いかに此あたりに里人のわたり候 ふか。ワキ詞「里人とは何の御用にて候ふ

ぞ。トモ「流され人の行方や御存じ候。 トモ「流され人にとりても。いかやうなる 人を御尋ね候ぞ。トモ「平家の侍悪七 兵衛景清を尋ね 申し候。ワキ「唯 今こなたへ御出 で候ふ山陰に。 藁屋の候ふに人 は候はざりける か。トモ「其藁屋 には盲目なる乞 食こそ候ひつれ。 ワキ「なうその盲 目なる乞食こそ。 御尋ね候ふ景清 候ふよ。あらふ しぎや。景清のことを申して候へば。あ れにまします御ことの。御愁傷のけしき 見え給ひて候ふは。何と申したる御事に

て候ぞ。トモ「御不審尤もにて候。何を か包み申し候ふべき。これは景清の息女 にてわたり候ふが。今一度父御に御対面 ありたきよし仰せられ候ひて。これまで はる%\御下向にて候。とてもの事に然 るべきやうに仰せられ候ひて。景清に引

き合はせ申されて賜はり候へ。ワキ「言語道 断。さては景清の御息女にて御座候ふか。 まづ御心を静めて聞しめされ候へ。景清 は両眼しひまし/\て。せん方なさに髪 をおろし。日向の勾当と名を附き給ひ。 命をば旅人をたのみ。我ら如き者の憐 をもつて身命を御つぎ候ふが。昔に引き かへたる御有様を恥ぢ申されて。御名の りなきと推量申して候。某たゞ今御供 申し。景清と呼び申すべし。我が名なら ば答ふべし。其時御対面あつて。昔今の 御物語候へこなたへわたり候へ。 ワキ詞「なう/\景清の渡り候ふか。悪七 兵衛景清のわたり候ふか。シテ詞「かしまし /\さなきだに。故郷の者とて尋ねしを。 此仕儀なれば身を恥ぢて。名のらで帰す 悲しさ。千行の悲涙袂を・朽{く}たし。詞「万事 は皆夢の中のあだし身なりと打ち覚め て。今は此世になきものと。思ひ切つたる

乞食を。悪七兵衛景清なんどと。呼ばゝ此 方が答ふべきか。其上我が名は此国の。 地歌「日向とは日に向ふ。/\向ひたる名 をば呼び給はで。力なく捨てし梓弓。昔 に帰るおのが名の。悪心は起さじと。思 へども又。腹立ちや。シテ「処に住みなが ら。地「処に住みながら。御扶持ある方々 に。憎まれ申す者ならば。たとへに盲の 杖を失ふに似たるべし。片輪なる身の癖 として。腹あしくよしなき言事唯許しお はしませ。シテ「目こそ闇けれど。地「目こ そ闇けれども。人の思はく一言の内に知 る者を。山は松風。すは雪よ見ぬ花のさ むる夢の惜しさよ。さて又浦は荒磯によ する波も。聞ゆるは。夕汐もさすやらん。 さすがに我も平家なり。物語はじめて御 慰みを申さん。 シテ詞「いかに申し候。唯今はちと心にかゝ る事の候ひて。短慮を申して候ふ御免あ

らうずるにて候。ワキ詞「いや/\いつもの 事にて候ふほどに苦しからず候。又我等 より以前に。景清を尋ね申したる人はな く候ふか。シテ「いや/\御尋より外に 尋ねたる人はなく候。ワキ「あら偽を仰 せ候ふや。まさしう景清の御息女と仰せ られ候ひて御尋ね候ひしものを。何とて 御つゝみ候ふぞ。あまりに御痛はしさに これまで御供申して候。急いで父御に御 対面候へ。ツレ「なう自こそ是まで参り て候へ。恨めしやはる%\の道すがら。 雨風露霜を凌ぎて参りたる志も。徒らに なる恨めしや。さては親の御慈悲も。子 によりけるかや情なや。シテ「今までは包 みかくすと思ひしに。あらはれけるか露 の身の。置きどころなや恥かしや。御身 は花の姿にて。親子と名のり給ふならば。 殊に我が名もあらはるべしと。思ひ切り つゝ過すなり。我を怨と思ふなよ。地歌「あ

はれげに古は。疎き人をも訪へかしと て恨み譏るその報に。正しき子にだにも 訪はれじと思ふ悲しさよ。上歌「一門の船 の内。一門の船の内に肩をならべ膝を組 みて。処せく澄む月の。景清は誰よりも 御座船になくてかなふまじ。一類その以 下武略さま%\に多けれど。名を取楫の 船に乗せ。主従隔なかりしは。さも羨ま れたりし身の。麒麟も老いぬれば駑馬に 劣るが如くなり。 ワキ詞「あら痛はしや先かう渡り候へ。いか に景清に申し候。御娘御の御所望の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。ワキ「八島にて景清 の御高名の様が聞しめされたきよし仰せ られ候。そと御物語あつて聞かせ申され 候へ。シテ「これは何とやらん似合はぬ所 望にて候へども。これまで遥々来りたる 志あまりに不便に候ふほどに。語つ て聞せ候ふべし。此物語過ぎ候はゞ。か

の者をやがて故郷へ帰して賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。御物語すぎ候はゞ。や がて帰し申さうずるにて候。 シテ語「いで其頃は寿永三年三月下旬の事 なりしに。平家は船源氏は陸。両陣を海 岸に張つて。たがひに勝負を決せんと欲 す。能登守教経宣ふやう。去年播磨の 室山。備中の水島鵯越に至るまで。一 度も味方の利なかつし事。ひとへに義経 が謀いみじきに依つてなり。いかにも して九郎を討たん謀こそ有らまほしけれ と宣へば。詞「景清心に思ふやう。判官な ればとて鬼神にてもあらばこそ。命を捨 てば安かりなんと思ひ。教経に最期の暇 乞ひ。陸にあがれば源氏の兵。余すま じとて駈け向ふ。地歌「景清これを見て。 /\。物々しやと。夕日影に。打物ひら めかいて。切つてかゝればこらへずして。 刃向いたる兵は四方へばつとぞ逃げに

ける遁さじと。シテ「さもうしや方々よ。 地「さもうしや方々よ。源平たがひに見る 目も恥かし。一人を。留めん事は案の打 物。小脇にかいこんで。なにがしは平家 の侍悪七兵衛。景清と。名のりかけ/\ 手取にせんとて追うて行く。三保谷が着 たりける。冑の錣を。取りはづし取りは づし。二三度。逃げのびたれども。思ふ 敵なれば遁さじと。飛びかゝり冑をおつ とり。えいやと引くほどに錣は切れて。 此方に留れば。主は先へ逃げのびぬ。遥 に隔てゝ立ち帰りさるにても汝。おそろ しや腕の強きと言ひければ。景清は三保 の谷が。頸の骨こそ。強けれと笑ひて。 左右へのきにける。 昔忘れぬ物語。衰へはてゝ心さへ。乱れ けるぞや恥かしや。此世はとても幾ほど の。命のつらさ末近し。はや立ち帰り亡 き跡を。弔ひ給へ盲目の。くらき所の燈

あしき道橋と頼むべし。さらばよ留る行 くぞとの。只一声を聞き残すこれぞ親子

の。形見なるこれぞ親子の形見なる。