照日の神子 六条御息所の生霊(前ハ上臈後ハ鬼女) 横川の小聖 大臣

ワキツレ詞「是は・朱雀院{しゆじやくゐん}につかへ奉る臣下なり。 さても左大臣の・御{おん}息女。・葵上{あふひのうへ}の・御物{おんもの}の ・気{け}。以ての外に御座候ふ程に。貴僧高僧 を・請{しやう}じ申され。・大法秘法{たいほふひほふ}・医療{いれう}さま%\の ・御{おん}事にて候へども。更にその・験{しるし}なし。こ こに・照日{てるひ}の・神子{みこ}とて・隠{かくれ}なき・梓{あづさ}の・上手{じやうず}の 候ふを召して。・生霊死霊{いきりやうしりやう}の・間{あひだ}を。・梓{あづさ}に掛 けさせ申せとの・御{おん}事にて候ふ程に。此由 申し付けばやと存じ候。やがて・梓{あづさ}に御か け候へ。 ツレアヅサ「・天清浄{てんしやう%\}地清浄。・内外{ないげ}清浄・六根{ろつこん}清浄。 より・人{びと}は。今ぞ寄りくる・長浜{ながはま}の。・芦毛{あしげ}の駒 に・手綱{たづな}ゆりかけ。シテ一セイ「・三{み}つの車にのりの 道。・火宅{くわたく}の・門{かど}をや。出でぬらん。 二ノ句「・夕顔{ゆふがほ} の・宿{やど}の・破車{やれぐるま}。やる・方{かた}なきこそ悲しけれ。 次第「・浮世{うきよ}は・牛{うし}の・小車{こぐるま}の。/\・廻{めぐ}るや報な るらん。 サシ「・凡{およ}そ・輪廻{りんゑ}は車の輪の如く。 六・趣{しゆ}四・生{しやう}を出でやらず。人間の・不定{ふぢやう}・芭蕉{ばせを} ・泡沫{はうまつ}の世の習。・昨日{きのふ}の花は・今日{けふ}の夢と。

驚かぬこそ愚なれ。身の憂きに人の恨の なほ添ひて。忘れもやらぬ我が・思{おもひ}。せめ てや・暫{しば}し慰むと。・梓{あづさ}の弓に・怨霊{をんりやう}の。これま で現れ出でたるなり。下歌「あら恥かしや 今とても・忍車{しのびぐるま}の ・我{わ}が姿。上歌「月 をば眺め明かす とも。/\。月 には見えじかげ ろふの。梓の弓 のうら・弭{はず}に立ち 寄り憂きを語ら ん立ち寄り憂き を語らん。 シテ「梓の弓の・音{おと} は・何{いづ}くぞ。/\。ツレ「・東屋{あづまや}の・母屋{もや}の・妻戸{つまど} に居たれども。シテ「姿なければ・訪{と}ふ人も なし。シテ「不思議やな誰とも見えぬ・上臈{じやうらふ} の。・破車{やぶれぐるま}に召されたるに。・青{あを}女房と・思{おぼ}

しき人の。牛もなき車の・轅{ながえ}に取りつき。 さめ%\と泣き給ふ痛はしさよ。詞「若し かやうの人にてもや候ふらん。ワキツレ「・大方{おほかた} は・推量{すゐりやう}申して候。唯つゝまず名を・御{おん}名乗 り候へ。 シテ「それ・娑婆電光{しやばでんくわう}の・境{さかひ}には。恨むべき人 もなく。悲しむべき身もあらざるにいつ さて浮かれ・初{そ}めつらん。唯今・梓{あづさ}の弓の・音{おと}

に。引かれて現れ出でたるをば。如何な る者とか・思{おぼ}し召す。是は六・条{でう}の・御息所{みやすどころ} の・怨霊{をんりやう}なり。われ世に在りしいにしへは。 ・雲上{うんしやう}の花の・宴{えん}。春の・朝{あした}の・御遊{ぎよいう}に馴れ。・仙洞{せんとう} の・紅葉{もみぢ}の秋の夜は。月に・戯{たはぶ}れ色香に染 みはなやかなりし身なれども。衰へぬれ ば。・朝顔{あさがほ}の。日影待つ・間{ま}の有様なり。 唯いつとなき我が心。もの憂き・野辺{のべ}の・早蕨{さわらび} の。・萌{も}え出でそめし思の露。斯かる・恨{うらみ} を晴らさんとて。これまで現れ出でたる なり。地下歌「思ひ知らずや世の中の情は人 のためならず。上歌「・我{われ}人のためつられ?け れば。/\必ず身にも報ふなり。何を歎 くぞ・葛{くず}の・葉{は}の・恨{うらみ}はさらに尽きすまじ・恨{うらみ}は さらに尽きすまじ。 シテ「あら・恨{うら}めしや。詞「今は打たでは叶ひ 候ふまじ。ツレ「あら浅ましや六条の。御 息所程の御身にて。うはなり打ちの・御{おん}振 舞。いかでさる事の候ふべき。・唯{たゞ}・思{おぼ}し召し

・止{とま}り給へ。シテ詞「いや如何に云ふとも。今 は打たでは叶ふまじと。枕に立ち寄りちや うと打てば。ツレ「この・上{うへ}はとて立ち寄り て。・妾{わらは}は・跡{あと}にて・苦{く}を見する。シテ「今の恨 は有りし・報{むくい}。ツレ「・嗔恚{しんい}のほむらは。 シテ「身を焦がす。神子「おもひ知らずや。 シテ「思ひ知れ。地「恨めしの心や。あら恨め しの心や。人の・恨{うらみ}の深くして。憂き・音{ね}に 泣かせ給ふとも。生きて此世にましまさ ば。・水闇{みずくら}き。・沢辺{さはべ}の蛍の影よりも。光る君と ぞ・契{ちぎ}らん。シテ「・妾{わらは}は・蓬生{よもぎふ}の。地「・本{もと}あらざ りし身となりて。・葉末{はずゑ}の露と消えもせば。 それさへ殊に恨めしや。夢にだにかへら ぬものを・我{わ}が・契{ちぎり}。・昔語{むかしがたり}になりぬれば。 なほも・思{おもひ}は・増鏡{ますかゞみ}。その・面影{おもかげ}も恥かしや。 枕に立てる・破車{やれぐるま}うち乗せ隠れ行かうよう ち乗せ隠れ行かうよ。ワキツレ詞「いかに誰かあ る。葵上の・御{おん}物の気。いよ/\以ての外 に御座候ふ程に。・横川{よかわ}の・小聖{こひじり}を・請{しやう}じて来

り候へ。狂言シカ%\、ワキ「九・識{しき}の窓の前。・十乗{じふじよう} の・床{ゆか}のほとりに。・瑜伽{ゆが}の・法水{ほつすゐ}をたゝへ。 詞「・三密{さんみつ}の月を澄ます所に。案内申さんと は如何なる者ぞ。狂言シカ%\、ワキ「・此間{このあひだ}は・別行{べつぎやう} の子細あつて。・何方{いづかた}へも罷り出でず候 へども。・大臣{おとゞ}よりの・御使{おんつかひ}と・候{さふら}ふ程に。や がて参らうずるにて候。 ワキツレ「唯今の・御出{おんいで}・御大儀{ごたいぎ}にて候。ワキ「承り 候。扨病人は・何{いづ}くに御座候ふぞ。ワキツレ「あれ なる・大床{おほゆか}に御座候。ワキ「さらば・頓{やが}て・加持{かぢ} し申さうずるにて候。ワキツレ「尤もにて候。 ワキ「・行者{ぎやうじや}は加持に参らんと。・役{えん}の行者の 跡を継ぎ。・胎金両部{たいこんりやうぶ}の峯を分け。・七宝{しつぱう}の 露を払ひし・篠懸{すゞかけ}に。詞「・不浄{ふじやう}を隔つる・忍辱{にんにく} の・袈裟{けさ}。・赤木{あかぎ}の・珠数{じゆず}のいらたかを。さら り/\と押しもんで。・一祈{ひといのり}こそ祈つた れ。・曩謨三曼荼〓{口へんに縛}曰羅赦{なまくさまんだばさらだ}。イノリ、シテ「如何 に行者。・早{はや}帰り給へ。帰らで不覚し給ふ なよ。ワキ「たとひ如何なる・悪霊{あくりやう}なりと

も。行者の・法力{ほふりき}尽くべきかと。・重{かさ}ねて珠 数を押しもんで。地「・東方{とうばう}に・降三世明王{がうざんぜみやうわう}。 シテ「・南方軍荼利夜叉{なんばうぐんだりやしや}。地「・西方大威徳{さいはうだいゐとく}明 王。シテ「・北方{ほつぱう}金剛。地「夜叉明王。シテ「・中央大聖{ちうあうだいしやう}。 地「不動明王。・曩謨三曼荼〓{口へんに縛}曰羅赦{なまくさまんだばさらだ}。 ・旋陀摩訶〓遮那{せんだまかろしやな}。・娑婆多耶吽多羅〓{咤のウかんむりの無い字} 干〓{そはたやうんたらたかんまん}。・聴我説者{ちやうがせつしや}。・得大智慧{とくだいちゑ}。・知我身者{ちがしんじや}。

・即身成仏{そくしんじやうぶつ}。シテ「あら/\恐ろしの・般若声{はんにやごゑ} や。これまでぞ・怨霊{をんりやう}。この・後{のち}又も来るまじ。 キリ地「・読誦{どくじゆ}の声を聞く時は。/\。・悪鬼{あくき}心 を和らげ。・忍辱{にんにく}慈悲の姿にて。・菩薩{ぼさつ}もこ こに・来迎{らいがう}す。成仏・得脱{とくだつ}の。身となり行く ぞ有難き/\。