阿部晴明 女の生霊

狂言「かやうに候ふ者。貴船の宮に仕へ 申す者にて候。さても今夜不思議なる霊 夢を蒙りて候その謂は。都より女の丑の 時詣をせられ候ふに申せと仰せらるゝ子 細。あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。 今夜参られ候はゞ。御夢想の様を申さば やと存じ候。 シテ次第「日も数そひて恋衣。/\。貴船の宮 に参らん。サシ「げにや蜘蛛のいへに荒れ たる駒は繋ぐとも。二道かくるあだ人を。

頼まじとこそ。おもひしに。人の偽末知 らで。契りそめにし悔しさも。たゞわれ からの心なり。余り思ふも苦しさに。貴 船の宮に詣でつゝ。住むかひもなき同じ。 世の。うちに報を見せ給へと。下歌「たの みを懸けて貴船川。早く歩をはこばん。 上歌「通ひなれたる道の末。/\。夜も糺 のかはらぬは。思に沈む御泥池生けるか ひなき憂き身の。消えんほどとや草深き 市原野辺の露分けて。月遅き夜の鞍馬川。

橋を過ぐれば程もなく。貴船の宮に着き にけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。貴船の宮に着きて候。 心静かに参詣申さうずるにて候。狂言「い かに申すべき事の候。御身は都より丑の 刻詣めさるゝ御方にて候ふか。今夜御身 の上を御夢想に蒙りて候。御申しある事 は早叶ひて候。鬼になりたきとの御願に て候ふ程に。我が屋へ御帰あつて。身に は赤き衣を着。顔には丹をぬり。頭には 鉄輪を戴き。三つの足に火をともし。怒 る心を持つならば。忽ち鬼神と御なりあ らうずるとの御告にて候。急ぎ御帰あ つて告の如く召され候へ。なんぼう奇特 なる御告にて御座候ふぞ。シテ詞「是は思ひ もよらぬ仰にて候。わらはが事にはある まじく候。さだめて人違にて候ふべし。 狂言「いや/\しかとあらたなる御夢想に て候ふ程に。御身の上にて候ふぞ。か様

に申す内に何とやらん恐ろしく見え給ひ て候。急ぎ御帰り候へ。シテ「これは不思 議の御告かな。まづ/\我が屋に帰りつ つ。夢想の如くなるべしと。地「云ふより 早く色かはり。/\。気色変じて今まで は。美女の形と見えつる。緑の髪は空ざ まに。立つや黒雲の。雨降り風と鳴る神 も。思ふ中をば避けられし。恨の鬼とな つて。人に思ひ知らせん。憂き人に思ひ 知らせん。中入。 ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居 するものにて候。われこの間うち続き夢 見悪しく候ふ程に。晴明のもとへ立ち越 え。夢の様をも占はせ申さばやと存じ候。 いかに案内申し候。ワキ「誰にて渡り候ふ ぞ。ワキツレ「さん候下京辺の者にて候ふが。此 程うち続き夢見悪しく候ふ程に。尋ね申 さん為に参りて候。ワキ「あら不思議や。勘 へ申すにおよばず。これは女の恨を深く

かうむりたる人にて候。殊に今夜の内に。 御命も危く見え給ひて候。もし左様の事 にて候ふか。ワキツレ「さん候何をか隠し申す べき。われ本妻を離別し。新しき妻をか たらひて候ふが。 もし左様の事に てもや候ふらん。 ワキ「げにさやう に見えて候。彼 の者仏神に祈る 数積つて。御命 も今夜に極つて 候ふ程に。某が 調法には叶ひ 難く候。ワキツレ「これ まで参り御目に懸り候ふ事こそ幸にて 候へ。平に然るべきやうに御祈念あつて たまはり候へ。ワキ「この上は何ともして 御命を転じかへて参らせうずるにて候。

急いで供物を御調へ候へ。ワキツレ「畏つて候。 ワキ「いで/\転じかへんとて。茅の人形 を人尺に作り。夫婦の名字をうちに籠 め。三重の高棚五色の幣。おの/\供物 を調へて。肝胆を砕き祈りけり。謹上再 拝。夫れ天開け地固つしよりこのかた。 伊弉諾伊弉冊尊。天の磐座にして。み とのまくばひありしより。男女夫婦のか

たらひをなし。陰陽の道。永く伝はる。 それになんぞ魍魎鬼神妨をなし。非業 の命を取らんとや。地「大小の神祇。諸仏 菩薩。明王部天童部。九曜七星二十八宿 を驚かし奉り祈れば不思議や雨降り風落 ち神鳴り稲妻頻にみち/\御幣もざゝ めき鳴動して。身の毛よだちておそろ しや。 後シテ出端「夫れ花は斜脚の暖風に開けて。同 じく暮春の風に散り。月は東山より出で て早く西嶺に隠れぬ。世情の無常かくの 如し。因果は車輪の廻るが如く。われに 憂かりし人々に。忽ち報を見すべきなり。 恋の身の浮ぶ事なき加茂川に。地「沈みし は水の。青き鬼。シテ「我は貴船の川瀬の 蛍火。地「頭に戴く鉄輪の足の。シテ「炎の 赤き。鬼となつて。地「臥したる男の枕に 寄り添ひ。如何に殿御よ。めづらしや。 シテ「恨めしや御身と契りしその時は。玉

椿の八千代。二葉の松の末かけて。かは らじとこそ思ひしに。などしも捨ては果 て給ふらん。あら恨めしや。捨てられて。 地「捨てられて。おもふ思の涙に沈み。人 を恨み。シテ「夫をかこち。地「ある時は恋 しく。シテ「又は恨めしく。地「起きても寐 ても忘れぬ思の。因果は今ぞと白雪の。 消えなん命は今宵ぞ。痛はしや。 地「悪しかれと。思はぬ山の峰にだに。 /\。人のなげきはおふなるに。いはん や年月。思にしづむ恨の数。積つて執心の 鬼となるも理や。シテ「いで/\命を取 らん。地「いで/\命を取らんと。しもと を振り上げうはなりの。髪を手にからま いて。打つやうつの山の。夢現とも。分

かざるうき世に。因果はめぐりあひたり。 今さらさこそくやしかるらめ。さて懲り や思ひ知れ。シテ「ことさら恨めしき。 地「ことさら恨めしき。あだし男を取つて 行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。 恐ろしや御幣に。三十番神まし/\て。 魍魎鬼神は穢らはしや。出でよ/\と責 め給ふぞや。腹立や思ふ夫をば。取らで あまさへ神々の。責を蒙る悪鬼の神通通 力自在の勢絶えて。力もたよ/\と。 足弱車の廻り逢ふべき時節を待つべし や。まづこの度は帰るべしと。いふ声ば かりはさだかに聞えていふ声ばかり聞え て姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける目に 見えぬ鬼となりにけり。