臣下 庭掃老人 女御 老人の幽霊

ワキ詞「これは筑前の国木の丸の皇居に仕 へ奉る臣下にて候。偖も此處に桂の池と て名池の候ふに。常は御遊の御座候。〓 に御庭掃の老人の候ふが。女御の御姿を

見参らせ。静心なき恋となりて候。此事 を聞し召しおよばれ。恋には上下をわか ぬ習なれば。不便に思し召さるゝ間。か の池の邊の桂木の枝に鼓を掛け。老人に

撃たせられ。彼の鼓の声皇居に聞えば。 其時女御の御姿まみえ給はんとの御事に て候程に。かの老人を召して申し聞かせ ばやと存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「いつもの御庭掃の老人に。急いで参 れと申し候へ。狂言シカ%\「。ワキ「いかに老人。 汝が恋のことを忝くも聞し召し及ばれ。不 便に思し召さるゝ間。桂の池の桂木の枝 にかけ置かれたる鼓を。老人参りてうち 候へ。彼の鼓こ声皇居に聞えば。今一度 女御の御姿をまみえさせ給はんとの御事 なり。急ぎ参りて鼓を仕り候へ。シテ「仰 畏つて承り候。さらば参りて鼓を仕り 候ふべし。ワキ「こなたへ来り候へ。此鼓 の事にてあるぞ急いで仕り候へ。シテ「実 にや承り及びたる月宮の月の桂こそ、名 にたてる桂木なれ。これは正しき地辺の 枝に。かゝる鼓の声いでば。それこそ恋 のつかねなれと。夕の鐘の声そへて。又

うち添ふる日並の数。地次第「後の暮ぞとた のめおく。/\。時の鼓をうたうよ。 シテ一セイ「さなきだに。闇の夜鶴の老の身に。 地「思をそふる。はかなさよ。シテ「時の移 るもしら波の。地「鼓はなにとて。ならざ らん。シテサシ「後の世の近くなるをばおどろ かで。老にそへたる恋慕の秋。地「露も涙 もそほちつゝ。心からなる花の雫の。草 の袂に色そへて何をしのぶのみだれ恋。 シテ「忘れんと思ふ心こそ。地「忘れぬより は。思なれ。曲「然るに世の中は。人間萬 事塞翁が馬なれや。ひまゆく日かずうつ るなる。年去り時は来れども。終にゆく べき道芝の。露の命の限をば。誰に問は ましあぢきなや。などさればこれ程に。 知らばさのみに迷ふらん。シテ「驚けとて や東雲の。眠をさます時守の。うつや鼓 の数しげく。音にたゝば待つ人の。面影 もしやみけしの。綾の鼓とはしらずして。

老の衣手力添へて。うてども聞えぬは。も しも老耳の故やらんと。きけども/\。 池の波窓の雨。いづれもうつ音はすれど も。音せぬ物は此鼓の。怪しの太鼓や何と て。音は出でぬぞ。ロンギ地「思やうちも忘 るゝと。綾の鼓の音も我も出でぬを人や 待つらん。シテ「出でもせぬ雨夜の月を待 ちかぬる。心の闇を晴すべき時の鼓もな らばこそ。地「時の鼓のうつる日の。昨日 今日とは思へども。シテ「頼めし人は夢に だに。地「見えぬ思に明暮の。シテ「鼓もな らず。地「人も見えず。こは何となる神も。 思ふ中をばさけぬとこそ聞きし物をなど されば。か程の縁なかるらんと。身を恨み 人を喞ち。かくては何のため。いけらん ものを池水に。身を投げてうせにけりう き身を投げて失せにけり。中入間ワキ詞「い かに申し上げ候。かの老人鼓のならぬ事 を恨み。桂の池に身を投げ空しくなりて

候。かやうの者の執心も余りに恐ろしう 候へば。そと御出あつて御覧ぜられ候へ。 ツレ「いかに人々聞くかさて。あの波のう つ音か。鼓の声に似たるはいかに。あら おもしろの鼓の声や。あらおもしろや。 ワキ「不思議やな女御の御姿。さもうつゝ なく見え給ふは。いかなる事にてあるや らん。ツレ「現なきこそことわりなれ。綾 の鼓は鳴るものか。鳴らぬをうてと云 ひし事は。我がうつゝなき始なれと。 ワキ「夕波騒ぐ池の面。ツレ「なほうちそ ふる。ワキ「声ありて。後シテ「池水の。藻 屑となりし老の波。地「又立帰る執心の 恨。シテ「恨とも嘆とも。いへばなか/\ おろかなる。地「一念嗔恚邪婬の恨。晴 れまじや/\心の雲水の。魔境の鬼と今 ぞなる。シテ「小山田の苗代水は絶えずと も。心の池のいひははなさじとこそ思ひ しに。などしもされば情なく。ならぬ鼓

の声たてよとは。心を盡し果てよとや。 心づくしの木の間の月の。地「桂にかけた る綾の鼓。シテ「なるものか/\うちて見 給へ。地「うてや打てやと責鼓。よせ拍子 とう/\うち給へ/\とて。しもとをふ り上げ責め奉れば。鼓はならでかなしや 悲しやと。叫びまします女御の御声。あ らさてこりやさてこりや。地「冥途の刹鬼 あおう羅刹。/\の。呵責もかくやらん と。身を責め骨を砕く呵責の責といふと も。これにはまさらじ恐ろしやさてなに と。なるべき因果ぞや。シテ「因果歴然は まのあたり。地「歴然は目のあたり。知ら たり白波の池の。ほとりの桂木にかけ し鼓の時もわかず。うち弱り心つきて。 池水に身を投げて。波の藻屑と沈みし身 の。程もなく死霊となつて。女御に憑き 祟つて。しもとも波も。打ちたゝく池の 氷のとう/\は。風わたり雨落ちて。紅

蓮大紅蓮となつて。身の毛もよだつ波の 上に。鯉魚が踊る悪蛇となつて。まことに 冥途の鬼といふともかくやと思ひしら浪

の。あら恨めしや恨めしや。あら恨めし や。恨めしの女御やとて。恋の淵にぞ。 入りにける。