旅僧 従僧 男の霊 女の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「実にや聞きても忍山。/\。 其通路を尋ねん。ワキ詞「これは諸国一見の 僧にて候。我いまだ東国を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち陸奥の果までも修行せばや と思ひ候。道行三人「何処にも。こゝろとめじと 行く雲の/\。旗手も見えて夕暮の空も かさなる旅衣。おくはそなたか陸奥の。け ふの里にも着きにけり/\。シテツレ二人次第「け ふの細布をり/\の。けふの細布を

り/\の錦木や。名立なるらん。シテサシ「陸 奥のしのぶもじずり誰ゆゑに。みだれ そめにし我からと。シテツレ二人「藻に住む虫の 音に泣きて。壁生草のいつかさて。思を 乾さん衣手の。森の下露起きもせず。寐 もせで夜半を明かしては春のながめも如 何ならん。あさましや。そも幾程の身に しあれば。なほ待つ事の有り顔にて。思 はぬ人を思ひ寐の夢か現か寐てか覚めて

か。是や恋慕のならひなる。下歌「徒らに。 過ぐる心は多けれど。身になす事は涙川。 流れて早き。月日かな流れて早き月日か な。上歌「実にや流れては。妹背の中の川 と聞く。/\。吉野の山は何処ぞや。こ こは又。心の奥か陸奥のけふの都の名に しおふ。細布の色こそ変れ錦木の。千度 百夜いたづらに。悔しき頼なりけるぞ。 悔しき頼なりけり。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人と見れば。 夫婦と思しくて。女性の持ち給ひたるは。 鳥の羽にて織りたる布と見えたり。又男 の持ちたるは美しく色どり飾りたる木な り。何れも/\不思議なる売物かな。こ れは何と申したる物にて候ふぞ。ツレ「こ れは細布とて機ばり狭き布なり。シテ「こ れは錦木とて色どり飾れる木なり。いづ れも当所の名物なり。これ/\召され候 へ。ワキ「実に/\錦木細布の事は承り及

びたる名物なり。さて何故の名物にて候 ふやらん。ツレ「うたての仰候ふや。名に おふ錦木細布の。其かひもなくよそまで は。聞きも及ばせ給はぬよなう。シテ詞「い や/\それも御理。其道々に縁なき事を ば。何とてしろしめさるべき。シテツレ二人「見 奉れば世を捨人の。恋慕の道に染む。こ の錦木の細布の。しろしめさぬは理な り。ワキ「あら面白の返答やな。さて/\ 錦木細布とは。恋路によりたる謂よな う。シテ詞「なか/\の事三年まで。立て置 く数の錦木を。日毎に立てゝ千束ともよ み。ツレ「又細布は機ばりせばくて。さな がら身をも隠さねば。胸合ひがたき恋と もよみて。シテ「恨にも寄せ。ツレ「名をも 立てゝ。シテ「逢はぬを種と。ツレ「よむ歌 の。地歌「錦木は。立てながらこそ朽ちに けり。/\。けふの細布。胸合はじとや とさしもよみし細布の。機ばりもなき身

にして。歌物語恥かしや。実にや名のみは 岩代の。松の言の葉取り置き夕日の影も 錦木の。宿にいざや帰らん/\。 ワキ詞「猶々錦木細布の謂御物語候へ。 シテ「昔より此処の習にて。男女の媒 には此錦木を作り。女の家の門に立つる しるしの木なれば。美しく色どり飾りて 之を錦木と云ふ。さる程に逢ふべき男の 錦木をば取り入れ。逢ふまじきをば取り 入れねば。或は百夜三年までも立てしに よつて千束ともよめり。又此山陰に錦塚 とて候。これこそ三年まで錦木立てたり し人の古墳なれば。取り置く錦木の数と もに塚に築きこめて。是を錦塚と申し候。 ワキ「さらば其錦塚を見て。故郷の物語に し候ふべし。教へて賜はり候へ。シテ「あう いで/\さらば教へ申さん。ツレ「此方へ 入らせ給へとて。二人「夫婦の者は先に立 ち。彼の旅人を伴ひつゝ。地「けふの細道

分け暮らして錦塚は何処ぞ。彼の岡に。 草刈る男心して。人の通路明らかに。教 へよや道芝の。露をば誰に問はまし真如 の玉は何処ぞや。求めたくぞ覚ゆる。 シテ「秋寒げなる夕まぐれ。地「嵐木枯村時 雨。露分けかねて足引の。山の常陰も物 さび松桂に鳴く梟蘭菊の花に隠るなる。 狐住むなる塚の草。もみぢ葉染めて錦塚 は。是ぞと言ひ捨てゝ。塚の内にぞ入りに ける。夫婦は塚に入りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「男鹿の角の束の間も。/\。 寝られんものか秋風の。松の下臥夜もす がら。声仏事をやなしぬらん/\。 ツレ出端「いかに御僧。一樹一河の流を汲むも。 他生の縁ぞと聞くものを。ましてや値遇 のあればこそ。かく宿する草の枕の。 夢ばし覚まし給ふなよ。あら貴の御法や な。後シテ「あら有難の御弔やな。二世と かねたる契だにも。さしも三年の日数つ

もる。此錦木の逢ひ難き。法の値遇の有 難さよ。いで/\姿を見え申さん。今こ そは。色に出でなん錦木の。地「三年は過 ぎぬいにしへの。シテ「夢又夢に。今宵三 年の値遇に。今ぞ帰るなれと。地「尾花が 本の思草の。蔭より見えたる塚の幻に。 現れ出づるを御覧ぜよ。シテ「いふなら く。奈落の底に。入りぬれば。刹利も首 陀も。変らざりけりかはらざりけり。あ ら恥かしや。 ワキ「不思議やなさも古塚と見えつるが。 内はかゞやく燈の。影明らかなる人家 の内に。機物を立て錦木を積みて。昔を あらはす粧なり。これは夢かや現かや。 ツレ「かきくらす心の闇にまどひにき。夢 現とは世人定めよ。シテ詞「実にや昔に業平 も。世人定めよといひしものを。夢現と は旅人こそ。よく/\知し召さるべけれ。 ワキ「よし夢なりとも現なりとも。はやは

や昔を現して。夜すがら我に見せ給へ。 シテ「いで/\。詞「昔を現さんと。夕影草の 月の夜に。ツレ「女は塚のうちに入りて。 秋の心も細布の。機物を立てゝ機を織れ ば。シテ詞「夫は錦木を取り持ちて。さしたる 門をたゝけども。ツレ「内より答ふる事も なく。ひそかに音する物とては。シテ「機 物の音。ツレ「秋の虫の音。シテ「聞けば夜 声も。ツレ「きり。シテ「はたり。ツレ「ちや う。シテ「ちやう。地歌「きりはたりちやう /\。きりはたりちやう/\。機織松虫 きり%\す。つゞりさせよと鳴く虫の。 衣の為かなわびそおのが住む野の。千種 の糸の。細布織りて取らせん。 地クリ「実にや陸奥のけふの郡の習とて。 処からなる事業の。世に類なき有様かな。 シテサシ「申しつるだにはゞかりなるに。な ほも昔を顕せとの。地「御僧の仰に従ひ て。織る細布や錦木の。千度百夜を経る

とても此執心はよも尽きじ。シテ「然れど も今逢ひ難き縁によりて。地「妙なる一乗 妙典の。功力を得んと懺悔の姿。夢中に なほも。現すなり。 クセ「夫は錦木を運べば女は内に細布の。 機織る虫の音に立てゝ問ふまでこそなけ れども。互に内外のあるぞとは。知られ知 らるゝ中垣の。草の戸ざしは其まゝにて。 夜はすでに明けければすご/\と立ち帰 りぬ。さる程に。思の数も積り来て。錦 木は色朽ちてさながら苔に埋木の。人知 れぬ身ならばかくて思もとまるべきに。 錦木は朽つれども。名は立ち添ひて逢ふ 事は。涙も色に出でけるや。恋の染木と も。此錦木をよみしなり。シテ「思ひきや。 榻のはしがきかきつめて。地「百夜も同じ 丸寐せんと。よみしだにあるものを。せめ ては一年待つのみか。二年あまり有り /\て早陸奥の今日までも。年紅の錦

木は。千度になれば徒らに。我も門辺に立 ち居り錦木と共に朽ちぬべき。袖の涙の たまさかにも。などや見みえ給はぬぞ。 さていつか三年は満ちぬ。あらつれなつ れなや。 地「錦木は。シテ「千束になりぬ。今こそ は。地「人に知られぬ。閨の内見め。シテ「う れしやな。今宵鸚鵡の盃の。地「雪を廻 らす。舞の袖かな/\。男舞「。シテ「舞をまひ。

地「舞をまひ。歌をうたふも妹背の媒。立 つるは錦木。シテ「織るは細布の。地「とり どりさま%\の夜遊の盃にうつりて有 明の。影恥かしや/\。あさまにやなり なん。覚めぬさきこそ夢人なるもの。覚 めなば錦木も細布も。夢も破れて。松風 颯々たる。朝の原の野中の塚とぞなりに ける。