旅僧 猟師の霊 猟師の妻 猟師の千代童

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我いま だ陸奥外の浜を見ず候ふ程に。此度思ひ 立ち外の浜一見と志して候。またよきつ いでにて候ふ程に。立山禅定申さばやと 存じ候。急ぎ候ふ程に。これは早立山に 着きて候。心静かに一見せばやと思ひ候。 さても我此立山に来て見れば。まのあた りなる地獄の有様。見ても恐れぬ人の心 は。鬼神よりなほ恐ろしや。山路に分つ

ちまたの数。多くは悪趣の険路ぞと。涙 もさらにとゞめ得ぬ。慙愧の心時過ぎて 山下にこそは下りけれ/\。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧に申すべき 事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。シテ「陸奥 へ御下り候はゞ言伝申し候ふべし。外の 浜にては猟師にて候ふ者の。去年の秋身 まかりて候。其妻や子の宿を御尋ね候ひ て。それに候ふ簑笠手向けてくれよと仰

せ候へ。ワキ「これは思もよらぬ事を承 り候ふものかな。届け申すべき事はやす きほどの御事にて候さりながら。上の 空に申してはやはか御承引候ふべき。 シテ「実に確かなるしるしなくてはかひあ あるまじ。や。思ひ出でたり有りし世の。 今はの時まで此尉が。木曽の麻衣の袖を 解きて。地「これをしるしにと。涙を添へ て旅衣。/\。立ち別れ行く其跡は。雲 や煙の立山の。木の芽も萌ゆる遥々と客 僧は奥へ下れば。亡者は泣く/\見送り て行く方知らずなりにけり行く方知らず なりにけり。中入間「。 ツレ「実にやもとよりも定なき世の習ぞ と。思ひながらも夢の世の。あだに契り し恩愛の。別の後の忘れ形見。それさへ 深き悲しびの。母が思を如何にせん。 ワキ詞「いかに此屋の内へ案内申し候はん。 ツレ「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「これは諸国

一見の僧にて候ふが。立山禅定申し候ふ 所に。其様すさまじき老人の有りしが。 陸奥へ下らば言伝すべし。外の浜にては 猟師にて候ふ者の。去年の秋身罷りて候。 其妻子の宿を尋ねて。それに候ふ簑笠手 けてくれよと仰せ候ふ程に。上の空に 申してはやはか御承引候ふべきと申して 候へば。其解き召されたる麻衣の袖を解き て賜はりて候ふ程に。これまで持ちて参 りて候。若し思し召し合はする事の候ふ か。ツレ「これは夢かやあさましや。四手 の田長のなき人の。上聞きあへぬ涙かな。 詞「さりながら余りに心もとなき御事な れば。いざや形見を簑代衣。まどほに織 れる藤袴。ワキ「頃も久しき形見ながら。 ツレ「今取りいだし。ワキ「よく見れば。 地歌「疑も。夏立つ今日の薄衣。/\。一 重なれども合はすれば。袖ありけるぞあ らなつかしの形見や。やがて其まゝ弔

の。御法を重ね数々の。中に亡者の望む なる。簑笠をこそ手向けけれ/\。ワキ「南 無幽霊出離生死頓証菩提。 後シテ一声「陸奥の。外の浜なる。呼子鳥。鳴く なる声は。うとふやすかた。一見卒塔婆 永離三悪道。此文の如くば。たとひ拝し 申したりとも。永く三悪道をば遁るべし。 如何にいはんや此身の為。造立供養に預 からんをや。たとひ紅蓮大紅蓮なりとも。 名号智火には消えぬべし。焦熱大焦熱な りとも。法水には勝たじ。さりながら此 身は重き罪科の。心はいつかやすかたの。 鳥獣を殺しゝ。地下歌「衆罪如霜露恵日の 日に照らし給へ御僧侶。 地上歌「所は陸奥の。/\。奥に海ある松原 の下枝に交じる汐芦の。末引きしをる 浦里の籬が島の苫屋形。囲ふとすれどま ばらにて。月のためには外の浜心ありけ る。住居かなこゝろありける住居かな。

ツレ「あれはとも言はゞ形や消えなんと。 親子手に手を取り組みて。泣くばかりな る有様かな。シテ「あはれや実にいにしへ は。さしも契りし妻や子も。今はうとふ の音に泣きて。やすかたの鳥の安からず や。何しに殺しけん。我が子のいとほしき 如くにこそ。鳥獣も思ふらめと。千代 童が髪をかき撫でて。あらなつかしやと 言はんとすれば。地歌「横障の。雲の隔か 悲しやな。/\。今まで見えし姫小松の。 はかなや何処に。木隠笠ぞ津の国の。和 田の笠松や箕面の瀧津波も我が袖に。立 つや卒塔婆のそとは誰簑笠ぞ隔なりける や。松島や。小島の苫屋内ゆかし我は外 の浜千鳥。音に立てゝ泣くより外の事ぞ なき。 地クリ「往時渺茫としてすべて夢に似たり。 旧遊零落して半。泉に帰す。シテサシ「とても 渡世をいとなまば。士農工商の家にも生

れず。地「又は琴碁書画をたしなむ身とも ならず。シテ「たゞ明けても暮れても殺生 をいとなみ。地「遅々たる春の日も所作足 らねば時を失ひ。秋の夜長し夜長けれど も。漁火白うして眠る事なし。シテ「九夏 の天も。暑を忘れ。地「玄冬の朝も寒か らず。 クセ「鹿を逐ふ猟師は。山を見ずといふ事 あり。身の苦しさも悲しさも。忘れ草の 追鳥高縄をさし引く汐の。末の松山風荒 れて。袖に波こす沖の石。または干潟と て。海ごしなりし里までも。千賀の塩竃身 を焦がす。報をも忘れける事業をなしゝ 悔しさを。そも/\善知鳥。やすかたの とり%\に。品かはりたる殺生の。シテ「中 に無慙やな此鳥の。地「愚かなるかな筑波 嶺の。木々の梢にも羽を敷き波の浮巣を もかけよかし。平砂に子を生みて落雁の。 はかなや親は隠すと。すれどうとふと呼

ばれて。子はやすかたと答へけりさてぞ 取られやすかた。シテ「うとふ。カケリ「。地「親 は空にて血の涙を。/\。降らせば濡れ じと菅簑や。笠を傾けこゝかしこの。便 を求めて隠笠。隠簑にもあらざれば。な ほ降りかゝる。血の涙に。目も紅に染 み渡るは。紅葉の橋の。鵲か。 地「娑婆にては。善知鳥やすかたと見えし も。/\。冥途にしては。怪鳥となり罪 人を追つ立て鉄の。嘴を鳴らし。羽を たゝき銅の爪を。磨ぎ立てゝは。眼を つかんで肉を叫ばんとすれども猛火の煙 にむせんで声を。あげ得ぬは鴛鴦を殺し し科やらん。遁げんとすれば。立ち得ぬ は。羽抜鳥の報か。シテ「うとふは却つて 鷹となり。地「我は雉とぞなりたりける。 遁れがた野の狩場の吹雪に。空も恐ろし。 地を走る。犬鷹に責められて。あら心う とふやすかた。やすき隙なき身の苦を。

助けてたべや。御僧助けてたべや。御僧

といふかと思へば失せにけり。