旅僧 女の霊 男の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。此間 は北国に候ひて。霊仏霊社残りなく拝み 廻りて候。余りに雪深くなり行き候ふ程 に。是より若狭路にかゝり。都へ上らばや と存じ候。道行「冬枯の。梢淋しき越の山。 /\。分け行く末は白雲の。八重の塩路 もほの%\と木の間に見ゆる若狭路の。 煙るそなたやうらみ坂。松風寒き磯山に。 里とひかぬる夕かな。/\。詞「急ぎ候ふ程 に。これは早若狭の国気山とかやに着て 候。あら笑止や。俄に雪の降り来りて候。 あの松原の人宿に。立寄り雪を晴さばや と思ひ候。ツレ詞呼掛「なう/\御僧。何とて其 宿には立寄り給ひ候ふぞ。ワキ「不思議や

降る雪に行きかふ里人も見えず。木深き 松原の蔭よりも。女性一人来り給ひ。我 に言葉をかけ給ふは。いかなる人にてま しますぞ。ツレ「これは此あたりに住む者 にて候。そなたをこそ誰とは問ひ申すべ けれ。これは恋の松原とて由ある処なり。 たゞかりそめの一樹の蔭とおぼしめさ ば。御こゝろなきやうにこそ候へ。 ワキ「偖は故ある処にて候ひけるぞや。又 何ゆゑ恋の松原とは申し候ふぞ。ツレ「む かし此処に住みし人忍妻に契り。此松原 に待てといひしかば。其言葉を違へじと。 夜更くるまで帰らざりしに。浦風烈しく ふゞきて。俄に積もる白雪の。跡ふみ分く

べき道もなく。松もをれふす木がくれに。 埋れ果てゝ空しくなる。さも浅ましき邪 淫の妄執。ともにあはれと思し召して。 跡よく弔ひ給へとよ。地「夕の空もすさま じき。恋の松原の。験の石も苔むして。 あれのみまさる草の蔭。隠はあらじ 今ははや。名のらずとても白雲の。跡 とはせ給へとて。夢の如くになりにけ り/\。中入間「。 ワキ待謡「沖つ波。声うちそふる松原の。/\。 蔭にかたしく草衣かりに見えつる幻の。 妹背をかけて夜と共に彼の亡き跡を弔ふ とかや彼の亡き跡を弔ふとかや。ツレ一セイ「嬉 しの今の御弔やな。五障の雲の空晴れ て。恵日の光くもりなき。天上に到らん ありがたさよ。シテ「我はなほ浮みもやら ぬ苦海の底に。沈まば人をもともに沈め て。重き苦患を見せ申さん。御経をも読 誦し給ふべからず。ツレ「浅ましやたまた

まのがるゝ牛頭馬頭の。責をばいかでな ほも身の。妄執多き言の葉を。我は聞か じと立ちのけば。シテ「あら情なや御覧ぜ よ。今降る雪も古の空。おもひ掛けたる 唐土の。ツレ「山陰の雪にあくがれしは。 シテ「子猷が興に乗ぜし舟。ツレ「〓橋{ハキョウ。新字源:4544}の 雪に駒とめしは。シテ詞「・こけう{鄭綮:ていけい}といへる詩人 とかや。ツレ「それは心ある古人ぞかし。 シテ「我はそれには引きかへて。胸をやく。 カケリ「。胸をやく。煙は空に富士の根の。 地「雪も思も積る根の。何なか/\に。つ れなき色を松ばの雪の。消えなばきえな ん惜しからぬ此身の。命や。なほ執心はつ きぬ世の。/\。因果の程もしら雪の。 つもると見えしは罪障の山と現れごく縄 しゆがうや。べうどうの衆生となつて。 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢつけられて。苦を 三瀬河の。波風もあら寒や。シテ「古の妄執 も。地「古の妄執も。思ひ出でたりあの松

原の。寒風は頻に吹き落ち。シテ「笠も たまらぬ身の代衣。地「かきくれふるや。 シテ「白雪の袖をはらひ。地「行くも。行か れず。シテ「帰るさも。地「涙にくれ果てゝ。 中有にさまよふ身なるとも。妙なる仏果 の縁にひかれて。〓{新字源:2391。たう}利都卒の天上に生れ

生るゝ妹背の中の。罪業は雪と消え。胸 の蓮も開くる花の。台に到るありがたさ よと。いふかときけば明方の。磯うつ浪 や松風の。磯うつ波や松風の声にまぎれ て失せにけり。