小野小町 深草四位少将

ワキ詞「これは・八瀬{やせ}の・山里{やまざと}に・一夏{いちげ}を送る僧 にて候。こゝに・何処{いづく}とも知らず・女性{によしやう}・一人{いちにん}。 ・毎日{まいにち}・木{こ}の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて来り候。・今日{けふ}も 来りて候はゞ。いかなる者ぞと名を尋ね ばやと思ひ候。 ツレ次第「拾ふ・妻木{つまぎ}も・焚物{たきもの}の。/\匂はぬ。袖 ぞかなしき。ツレ「これは・市原野{いちはらの}のあたり に住む女にて候。詞「さても・八瀬{やせ}の・山里{やまざと} に。・貴{たつと}き人の・御入{おんい}り候ふ程に。いつも・木{こ} の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて参り候。・今日{けふ}もまた参 らばやと思ひ候。如何に申し候。又こそ 参りて候へ。 ワキ詞「いつも来れる人か。今日{けふ}は・木{こ}の・実{み}の

・数々{かず/\}・御物語{おんものがた}り候へ。 ツレ「拾ふ・木{こ}の・実{み}は何々ぞ。地「拾ふ・木{こ}の・実{み} は何々ぞ。ツレ「・古{いにしへ}見馴れし。車に似たる は嵐にもろき・落椎{おちじひ}。地「・歌人{かじん}の家の・木{こ}の・実{み} には。ツレ「・人丸{ひとまる}の・垣穂{かきほ}の・柿{かき}。山の・辺{べ}の・笹栗{さゝぐり}。 地「窓の梅。ツレ「・園{その}の桃。地「花の名にあ る桜・麻{あさ}の。・苧生{をふ}のうら・梨{なし}なほもあり・擽{いちひ}か しひまてばしひ。・大小{だいせう}・柑子{かんじ}・金柑{きんかん}。あはれ昔 の恋しきは・花橘{はなたちばな}の。・一枝{ひとえだ}花橘の一枝。 ワキ詞「・木{こ}の・実{み}の数々は承りぬ。さて/\ ・御身{おんみ}は如何なる人ぞ名を・御名{おんな}のり候へ。 ツレ「恥かしや・己{おの}が名を。地「をのとはいは じ・薄{すゝき}・生{お}ひたる・市原野辺{いちはらのべ}に住む・姥{うば}ぞ。跡と

ひ給へ・御僧{おんそう}とてかき消すやうに。失せに けりかき消すやうに失せにけり。 ワキ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。 唯今の女の名を委しく尋ねて候へば。を のとはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひたる。・市原野{いちはらの}に住む 姥と申しかき消すやうに失せて候。こゝ に思ひ合はする事の候。或る人・市原野{いちはらの}を 通りしに。・薄一村{すゝきひとむら}・生{お}ひたる蔭よりも。・秋風{あきかぜ} の吹くにつけてもあなめあなめ。・小野{をの}と はいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひけりとあり。これ・小野{をの}の ・小町{こまち}の歌なり。さては疑ふ所もなく唯今 の・女性{によしやう}は。小野の小町の・幽霊{いうれい}と思ひ候ふ 程に。かの・市原野{いちはらの}に行き。小町の跡を・弔{とぶら} はゞやと思ひ候。歌待謡「この・草庵{さうあん}を立ち出 でて。/\。なほ草深く露しげき・市原野辺{いちはらのべ} に尋ね行き。・座具{ざぐ}を・展{の}べ・香{かう}を・焼{た}き。 ・南無幽霊成等正覚{なむいうれいじやうとうしやうがく}。・出離生死頓生菩提{しゆつりしやうじとんしやうぼだい}。 ツレ一声「うれしの・御僧{おそう}の・弔{とぶらひ}やな。同じくは ・戒{かい}授け給へ・御僧{おそう}。シテ「いや叶ふまじ・戒{かい}

授け給はゞ。恨み申すべし。・早{はや}帰り給へ ・御僧{おんそう}。ツレ「こは如何にたま/\かゝる・法{のり} に逢へば。なほその・苦患{くげん}を見せんとや。 シテ「・二人{ふたり}見るだに悲しきに。・御身{おんみ}・一人{いちにん}・仏道{ぶつだう} ならば・我{わ}が思。重きが上{うへ}の・小夜衣{さよごろも}。 重ねて憂き目を・三瀬川{みつせがは}に。沈みはてなば ・御僧{おそう}の。授け給へるかひも有るまじ。早 帰り給へや。・御僧達{おそうたち}。 地歌「なほもその身は迷ふとも。/\。・戒力{かいりき} に引かれば。などか・仏道{ぶつだう}ならざらん・唯{たゞ}。 共に・戒{かい}を受け給へ。ツレ「人の心は・白雲{しらくも} の。・我{われ}は曇らじ心の月。出でて・御僧{おそう}に・弔{と} はれんと・薄{すゝき}おし分け出でければ。シテ「包 めど我も穂に出でて。/\。・尾花{おばな}。招か ば・留{と}まれかし。ツレ「思は山のかせきに て。招くと更に・留{と}まるまじ。シテ「さらば ・煩悩{ぼんのう}の。犬となつて。打たるゝと。離れ じ。ツレ「恐ろしの姿や。シテ「袂を取つて。 引きとむる。ツレ「引かるゝ袖も。シテ「ひ

かふる。地「我が袂も。共に涙の露。・深草{ふかくさ} の・少将{せうしやう}。 ワキ詞「さては・小野{をの}の・小町{こまち}・四位{しゐ}の少将にて ましますかや。とてもの事に車の・榻{しぢ}に。 ・百夜{もゝよ}通ひし所をまなうで・御見{おんみ}せ候へ。 ツレ「もとより我は・白雲{しらくも}の。かゝる・迷{まよひ}の有 りけるとは。シテ詞「思ひもよらぬ車の・榻{しぢ} に。・百夜{もゝよ}通へと・偽{いつは}りしを。まことと思ひ。 詞「・暁毎{あかつきごと}に忍び車の榻に行けば。ツレ「車 の物見もつゝましや。姿を変へよとい ひしかば。シテ詞「・輿車{こしぐるま}はいふに及ばず。 ツレ「いつか・思{おもひ}は。地「・山城{やましろ}の・木幡{こはた}の・里{さと}に馬 は有れども。シテ「君をおもへば・徒歩跣足{かちはだし}。 ツレ「さてその姿は。シテ「・笠{かさ}に・蓑{みの}。ツレ「身 の・浮世{うきよ}とや竹の・杖{つゑ}。シテ詞「月には行くも暗 からず。ツレ「さて雪には。シテ「袖を打ち 払ひ。ツレ「さて雨の・夜{よ}は。シテ「目に見え ぬ。・鬼一口{おにひとくち}も恐ろしや。ツレ「たま/\曇 らぬ時だにも。シテ「身・一人{ひとり}に・降{ふ}る。涙の

雨か。イロエ「。シテ「あら・暗{くら}の・夜{よ}や。ツレ「・夕暮{ゆふぐれ} は。・一方{ひとかた}ならぬ。・思{おもひ}かな。シテ「夕暮は何と。 地「・一方{ひとかた}ならぬ・思{おもひ}かな。シテ「月は待つら ん。月をば待つらん。我をば待たじ。・空言{そらごと} や。地「・暁{あかつき}は。/\。数々多き。思かな。 シテ「我が為ならば。地「鳥もよし鳴け。・鐘{かね} も・唯{ただ}・鳴{な}れ。・夜{よ}も明けよ唯 ・一人寝{ひとりね}ならば。・辛{つら} からじ。シテ「かやうに心を。尽{つく}し尽して。 地「かやうに心を尽し尽して。・榻{しぢ}の数々。 よみて見たれば。・九十九夜{くじふくよ}なり。今は ・一夜{ひとよ}ようれしやとて。待つ日になりぬ。急 ぎて行かん。姿は如何に。シテ「笠も・見苦{みぐる} し。地「・風折烏帽子{かざをりゑぼし}。シテ「・蓑{みの}をも・脱{ぬ}ぎ捨 て。地「・花摺衣{はなすりごろも}の。シテ「・色重{いろがさね}。地「・裏紫{うらむらさき}の。 シテ「・藤袴{ふぢばかま}。地「待つらんものを。シテ「あら 急がしや。すは・早{はや}・今日{けふ}も。地「・紅{くれなゐ}の・狩衣{かりぎぬ}の。 ・衣紋{えもん}けたかく引きつくろひ。・飲酒{おんじゆ}は如何 に。月の・盃{さかづき}なりとても。・戒{いましめ}ならば・保{たも}た んと。唯一念の・悟{さとり}にて。多くの罪を・滅{めつ}し

て小野の小町も少将も。共に・仏道{ぶつだう}成りに

けり/\。