小野小町 高野山僧 従僧

ワキ、ワキツレ次第「山は浅きに隠家の。/\深きや 心なるらん。詞「これは高野山より出でた る僧にて候。我このたび都に上らばやと 思ひ候。サシ「それ前仏は既に去り。後仏

はいまだ世に出でず。ワキ、ワキツレ「夢の中間に 生れ来て。何を現と思ふべき。たま/\ 受け難き人身を受け。逢ひ難き如来の仏 教に逢ひ奉る事。これぞ悟の種なると。

思ふ心もひとへなる墨の衣に身をなし て。上歌「生れぬさきの身を知れば。/\。 憐むべき親もなし。親のなければ我が為 に。心に留むる子もなし。千里を行くも 遠からず。野に臥し山に泊る身のこれぞ 誠の。栖なるこれぞ誠の栖なる。 シテ次第「身は浮草をさそふ水/\なきこそ 悲しかりけれ。サシ「あはれやげにいにし へは。驕慢もつとも甚だしう。翡翠の釵 は婀娜とたをやかにして。楊柳の春の風 に靡くが如し。また鴬舌の囀は。露を 含める糸萩の。かごとばかりに散りそむ る花よりもなほ珍しや。今は民間賎の目 にさへ穢なまれ。諸人に恥をさらし。嬉 しからぬ月日身に積つて。百年の姥とな りて候。下歌「都は人目つゝましやもしも それかと夕まぐれ。上歌「月もろともに出 でて行く。/\。雲居百敷や。大内山の 山守も。かゝる憂き身はよも咎めじ木隠

れてよしなや。鳥羽の恋塚秋の山。月の桂 の川瀬舟。漕ぎゆく人は誰やらん/\。 シテ詞「あまりに苦しう候ふほどに。これ なる朽木に腰を懸けて休まばやと思ひ 候。ワキ詞「なうはや日の暮れて候道を急が うずるにて候。や。これなる乞食の腰か けたるは。正しく卒都婆にて候。教化し てのけうずるにて候。いかにこれなる乞 丐人。おことの腰かけたるは。かたじ けなくも仏体色相の卒都婆にては無き か。そこ立ちのきて余の所に休み候へ。 シテ「仏体色相のかたじけなきとは宣へど も。是ほどに文字も見えず。刻める像も なしたゞ朽木とこそ見えたれ。ワキ「たと ひ深山の朽木なりとも。花咲きし木はか くれもなし。詞「いはんや仏体に刻める 木。などかしるしのなかるべき。シテ「我 も賎しき埋木なれども。心の花のまだ有 れば。手向になどかならざらん。詞「さて

仏体たるべき謂は如何に。ワキツレ「それ卒都 婆は金剛薩〓{た:土へんに垂}。かりに出化して三摩耶形 を行ひ給ふ。シテ詞「行ひなせる形は如何 に。ワキ「地水火風空。シテ「五大五輪は人 の体。何しに隔あるべきぞ。ワキツレ「形はそ れに違はずとも。心功徳はかはるべし。 シテ詞「さて卒都婆の功徳は如何に。ワキ「一 見卒都婆永離三悪道。シテ「一念発起菩提 心。それも如何でか劣るべき。ワキツレ「菩提 心あらばなど浮世をば厭はぬぞ。シテ「姿 が世をも厭はゞこそ心こそ厭へ。ワキ「心 なき身なればこそ。仏体をば知らざるら め。シテ詞「仏体と知ればこそ卒都婆には近 づきたれ。ツレ「さらばなど礼をばなさで 敷きたるぞ。シテ「とても臥したる此卒都 婆。我も休むは苦しいか。ワキ「それは順 縁にはづれたり。シテ詞「逆縁なりと浮むべ し。ツレ「提婆が悪も。シテ詞「観音の慈悲。 ワキ「槃特が愚痴も。シテ詞「文殊の智恵。

ツレ「悪と云ふも。シテ「善なり。ワキ「煩悩 といふも。ツレ「菩提なり。ツレ「菩提もと。 シテ「植木にあらず。ワキ「明鏡また。 シテ「台に無し。地「げに。本来一物なき時 は仏も衆生も隔なし。もとより愚痴の凡 夫を。救はん為の方便の。深き誓の願な れば。逆縁なりと浮むべしと。ねんごろ に申せば。誠に悟れる。非人なりとて。 僧は頭を地につけて。三度礼し給へば。 シテ「我は此時力を得。なほ戯の歌をよ む。極楽の内ならばこそ悪しからめ。そ とは何かは苦しかるべき。地「むつかしの 僧の。教化や/\。 ワキ詞「さておことは如何なる人ぞ名を御 名のり候へ。シテ詞「恥かしながら名を名 のり候ふべし。これは出羽の郡司。小野の 良実が娘。小野の小町がなれる果にてさ むらふなり。ワキワキツレ二人「いたはしやな小町 は。さもいにしへは優女にて。花のかた

ち輝き。桂の黛青うして。白粉を絶え さず。羅綾の衣多うして桂殿の間に余り しぞかし。シテ「歌をよみ詩を作り。地「酔 をすゝむる盃は。漢月袖に静かなり。ま こと優なる有様のいつ其ほどに引きかへ て。地歌「頭には。霜蓬を戴き。嬋妍たりし 両鬢も。膚にかしげて墨乱れ宛転たりし 双峨も遠山の色を失ふ。百年に。一年足 らぬつくも髪。かゝる思は有明の影恥か しき我が身かな。 ロンギ地「首に懸けたる袋には如何なる物 を入れたるぞ。シテ「今日も命は知らねど も。明日の飢を助けんと。粟豆の餉を 袋に入れて持ちたるよ。地「うしろに負へ る袋には。シテ「垢膩の垢づける衣あり。 地「臂にかけたるあじかには。白黒の慈姑 あり。地「破れ蓑。シテ「破れ笠。地「面ばか りは隠さねば。シテ「まして霜雪雨露。 地「涙をだにも抑ふべき袂も袖もあらば

こそ。今は路頭にさそらひ。往来の人に 物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は悪心。また狂乱 の心つきて。声かはりけしからず。 シテ「なう物給べなう御僧なう。ワキ詞「何 事ぞ。シテ詞「小町がもとへ通はうよなう。 ワキ「おことこそ小町よ。何とて現なき事 をば申すぞ。シテ「いや小町といふ人は。 あまりに色が深うて。あなたの玉章こな たの文。かきくれて降る五月雨の。空言 なりとも。一度の返事もなうて。いま百 年になるが報うて。あら人恋しやあら 人恋しや。ワキ「人恋しいとは。さてお ことには如何なる者のつきそひてある ぞ。シテ「小町に心を懸けし人は多き中に も。殊に思深草の四位の少将の。地「恨 の数のめぐり来て車の榻に通はん。日 は何時ぞ夕暮。月こそ友よ通路の。関守 はありとも留まるまじや出で立たん。 シテ「浄衣の袴かいとつて。地「浄衣の袴か

いとつて。立烏帽子を風折り狩衣の袖を うちかづいて。人目忍ぶの通路の。月に も行く暗にも行く。雨の夜も風の夜も。 木の葉の時雨雪深し。シテ「軒の玉水。と く/\と。地「行きては帰り。かへりては 行き一夜二夜三夜四夜。七夜八夜九夜。 豊の明の節会にも。逢はでぞ通ふ鶏の。 時をもかへず暁の。榻のはしがき百夜 までと通ひいて。九十九夜になりたり。

シテ「あら苦し目まひや。地「胸苦しやと悲 しみて。一夜を待たで死したりし。深草 の少将の。その怨念がつき添ひて。かや うに物には狂はするぞや。 キリ「これにつけても後の世を。願ふぞ誠 なりける。砂を塔と重ねて。黄金の膚こ まやかに。花を仏に手向けつゝ。悟の道 に入らうよ。/\。