高野の僧(為世) 為世の子姉弟 子方の母

ワキ詞「これは高野山より出でたる僧にて 候。我古は津の国水無瀬の里に。為世 といはれし者にて候ふが。さる子細候ひ て元結切り。かやうの姿と罷りなりて候。 次第に故郷もなつかしう候ふ程に。唯今 思ひ立ち水無瀬の里へと急ぎ候。これは はや故郷水無瀬の里に着きて候。此処に 暫く休まばやと思ひ候。 姉弟二人一声「花散りし。嵐も寒き秋風に。もろ き柞の森の露。消えても残る。命かな。 姉「これは津の国水無瀬の里に。為世の卿

といはれし人の。二人の子にて候ふなり。 二人「さても我が父後の世の。為世は遁世 し給ひて。母も我等も捨小舟の。水無瀬 の川の小夜千鳥。共音に鳴きて過ごせし に。母さへ空しくなり給ひて。我等おと とひ花水を手向のために立ち出づる。か ほどまで便なき身を我が父の。/\。捨 て置き給ふ思ひ子の恋ひ悲しめるあはれ さよ。人は帰らで見る夢の。別れ留まる 物ならば。現に逢はん由もがな/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる幼き者を見れ

ば。古の某が子にて候。さらぬ様に て過ぎ行かばやと思ひ候。弟「いかに姉 上。聖の御通り候御留め候へ。姉「実に よく仰せ候御とゞめ候へ。二人「いかに御 聖聞し召せ。往来の利益の御為ならば。 我等が母の空しき跡。弔ひてたばせ給へ なう。ワキ詞「無慙やな父とも知らでおとゝ ひは。利益をなさんと往来の。僧を供養 し給ふぞや。さらば留まり申すべし。 二人「嬉しや今日は母上の。空しき跡の其 日なり。御経読みてたび給へ。ワキ詞「それ こそ易き御事なれと。落つる涙を押さへ つゝ。御経を読まんと志せば。二人「我 等が母の亡き跡を。弔ひ給ふ御聖を。 ワキ「父とも知らで。二人「今は又。地「よそ のあはれに言ひなして。/\。さらば留 まりて。跡を弔ひ申さん。 二人「嬉しの今の仰やと。おとゝひ共に喜 べば。地「見れば昔にかはりたる。庭の桂

木窓の梅。主忘れぬしるしぞと。匂を留 めて吹く風の。洩る月影も冷まじや。見 苦しけれど此方へと。御僧を請じ入れけ れば。ワキ「千度百度親子ぞと。地「名乗ら ばやとは思へども。輪廻の業の目を塞ぎ。 念仏申し撫子の。弔ふ法の結縁に。正覚 ならせ給へや/\。 ワキ「南無幽霊成等正覚。シテ一声「念仏衆生 無量寿如来。ワキ「一代教主釈迦牟尼法号。 シテ「来迎引摂。地「あら有難や。 ワキ「更闌け夜静かに帳門開かざるに。 影の如くに見え給ふは。此世には亡き古 人の。姿現し給へるか。シテ「恥かしや なほも輪廻に帰り来て。見え参らするは 憚なれども。親と名乗らで情なく。よそ がましげにおはします。恨み申しに参り たり。ワキ「尤もそれはさる事なれども。 捨つる浮世の身を恥ぢて。親と名乗らぬ ばかりなり。シテ詞「なう包むも事による

ものをと。亡者は子供の手を取りて。 ワキ「草の枕の夜の宿。シテ「夢に相逢ふ親 と子の。姉弟「袂にすがれば。ワキ「ともか くも。地「争ひかねて捨人は。いとゞ心の 迷ひ子に。親と名乗らんは。よその人目 もいかならん。シテ「羨ましや父も子も。 地「同じ浮世の身にあれば。逢瀬の便も あるぞかし。我は冥途に帰りなばいつ又 夢にも逢ふべき。 地「緑子は三界の。/\。首かせに繋が れて。娑婆にも行かれず冥途にも。帰り かねて悲しやな。苦は受くれども。忘

るゝ隙なきは。娑婆に残る妄執愛着。恋 慕の妨ぐる。心の鬼の身を責めて。烏羽 玉の黒髪を。手に繰りからまき提げ引き すゑ。左右に引き分つて立つも立たれず 居るも居られぬ因果の車の廻り来て。問 へども何かは答ふべき。叫べとも叶はず。 シテ「されどもかやうの弔に。地「されど もかやうの弔に。今こそ親子に鸚鵡の 袖を振り切りがたき糸竹の。紫雲たなび き音楽聞え。紫雲たなびき音楽聞えて成 仏するこそありがたけれ成仏するぞ有 難き。