花若 日暮殿の妻 日暮殿 佐近尉 日暮従者

ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。九州薩摩の国日 暮殿の御内に。左近尉と申す者にて候。 偖も此日暮の里と申すは。前には大河流 れ。末は湖水につゞけり。この湖より群 鳥上つて。浦向の田を食み候ふ間。毎年 鳥追舟をかざり。田づらの鳥を追はせ候。 又頼み奉る日暮殿は。御訴訟の事あるに より御在京にて候ふが。其御留守に北の 御方と。花若殿と申す幼き人の御座候。あ まりに鳥追はせうずる者もなく候ふ間。 花若殿を雇ひ申し。田づらの鳥を追はせ 申さばやと存じ候。いかに案内申し候。左 近の尉が参りて候。シテ「左近の尉とは何 のために唯今来り給ふぞ。ワキツレ「さん候殿 はこの秋の頃御下向あるべき由申し候。

シテ「いかに花若が嬉しう候ふらん。ワキツレ「又 唯今参る事余の儀にあらず。当年某がふ ねに。更に鳥追はせうずる者なく候へば。 花若殿御出あつて鳥を追うて御遊び候へ かし。左様の事申さんために参りて候。 シテ「何と花若に田づらの鳥を追へと申す か。花若は稚けれども。左近の尉がため には主にてはなきか。主に鳥追へなどと 申すは。かゝる左近の尉ほど情なき者こ そなけれ。ワキツレ「何と左近の尉は情なき者 と仰せ候ふか。まづ御心を静めて聞しめ され候へ。人の御留守などと申すは。五十 日百日。乃至一年半年をこそ御留守とは 申せ。既に十箇年の余。扶持し申したる 左近の尉が情なき者にて候ふか。所詮こ

とば多き者は品少なしにて候ふ程に。花 若殿御出あつて鳥追ひなくば。この家 をあけて何方へも御出で候へ。シテ「げに げに申す処理にて候。花若が事は稚く 候へば。みづから出でて鳥を追ひ候ふべ し。ワキツレ「それこそ思ひもよらぬ事にて候 へ。花若殿の御事は稚き御事にて御座候 へば。苦しからざる御事にて候。上臈の 御身にて御出あるべきなどと仰せ候ふ は。某が名を御立て候はんずるために仰 せ候ふか。シテ「さらば花若一人は心許な く候へば。二人ともに立ち出で鳥を追ひ 候ふべし。ワキツレ「それはともかくも御計 にて候ふべし。さらば明日舟を浮めて待 ち申さうずるにて候。 シテ「げにや花若ほど果報なき者よもあら じ。さしも祝ひて月の春の。花若と傅く かひもなく。落ちぶれ果ててあさましや。 下歌地「賎が鳴子田引きつれて鳥追舟に乗

らんとて。上歌「共に涙の露しげき。/\。 稲葉の鳥を立てんとて。人も訪はざる柴 の戸を。親子伴ひ立ち出づる。/\。中入「。 ワキ次第「秋も憂からぬ古里に。/\。帰る心 ぞ嬉しき。詞「これは九州日暮の何某にて 候。偖も某自訴の事あるにより。十箇年 に余り在京仕り候ふ所に。自訴悉く安堵 し喜悦の眉を開き。唯今本国に罷り下り 候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。あなたに 当つて笛鼓の音の聞え候ふは。何事にて あるぞ尋ねて来り候へ。狂言シカ%\「。げにげ にさる事あり。九州にては此鳥追舟こそ 一つの見事にて候へ。此舟を待ちて見ば やと存じ候。 ワキツレサシ一声「面白や昨日の早苗いつのまに。 稲葉もそよぐ秋風に。田面の鳥を追ふと かや。後シテ子方二人「我等は心うき鳥の。下安 からぬ思の数。ワキツレ「群れゐる鳥を立てん とて。身を捨舟に羯鼓を打ち。シテ子方二人「或

は水田に庵を作り。シテ「又は小舟に鳴子 をかけ。シテ、子方、ワキツレ、三人一セイ「ひきつるゝ。湊の 舟の落汐に。地「浮き立つ鳥や。騒ぐらん。 シテ「鳥も驚く夢の世に。地「われらが業こ そ。うつゝなき。上歌「げにや夢の世の。 何か喩にならざらん。/\。身はうたか たの水鳥の。浮寝定めぬ波枕。うち靡く 秋の田の。穂波につれて浮き沈み面白の 鳥の風情や。此頃は。猶秋雨の晴間なき。 水陰草に舟よせて。われらも年に一夜妻。 逢ひもやすると天の川。上の空なる頼か な/\。 シテサシ「さるにても殿は此秋の頃。下り給ふ べきなどと申しつれども。それもはや詞 のみにて打ち過ぎぬれば。後々とてもた のみなし。たゞ花若が果報のなきこそう たてしう候へ。子方「げにや落花心あり人 心なし。たとひ父こそ訴訟のならひ。此 方のこと思ひながら。永々在京し給ふと

も。左近の尉情ある者ならば。みづか らが名をも朽たし。母御に思をかけ申す 事よもあらじ。あはれ父御に此恨を。語 り申し候はゞや。シテ「たとひ訴訟はかな はずとも。父もろともに添ふならば。か くあさましき事よもあらじ。地「いつまで か。かゝるうきめを水鳥の。はかなく袖 を濡すべき。 ワキツレ詞「これはさて何事を御歎き候ふぞ。歎 くことあらば我が家に帰りて御歎き候へ。 御覧候へ余の田の鳥は皆立ちて候ふが。 左近の尉が田の鳥は未だ立たず候。何の 為雇ひ申して候ふぞ。子方「悲しやな家人 にだにも恐るれば。身の果さらに白露の。 シテ「晩稲の小田も刈りしほに。色づく秋 の群鳥を。子方「をふの浦舟漕ぎつれて。 シテ「思ひ/\の囃子物。子方「あれ/\見 よや。シテ「よその舟にも。地「打つ鼓。 /\。空に鳴子の群雀。追ふ声を立て添

へさて。いつも太鼓は鼕々と風の打つや 夕波の。花若よ悲しくとも。追へや/\ 水鳥。いとせめて。恋しき時は烏羽玉の。 よるの衣をうちかへし。夢にも見るやと て。まどろめばよしなや夜寒の砧打つと かや。シテ「恨は日々に増れども。地「恨は 日々に増れども。哀とだにもいふ人の。 涙の数そへて。思ひ乱れて我が心。しど ろもどろになる鼓の。篠なき拍子とも人 や聞くらん恥かしや。シテ「家を離れて三 五の月の。地「隈なき影とても。待ち恨 みとことはに。心の闇はまだ晴れず。 シテ「すは/\群鳥の。地「すは/\群鳥 の。稲葉の雲に立ち去りぬ。又いつかあ ふ坂の。木綿附鳥か別の声。鼓太鼓打ち 連れて猶もいざや追はうよ。ワキツレ「あら嬉 しや今こそ某が田の鳥は皆立つて候へ。 まづ/\御休み候へ。 ワキ「鳥追舟に眺め入りて。故郷に帰るべ

き事を忘れて候。舟ども多き中に。羯鼓鳴 子を飾りたる舟面白う候。此舟を近づけ 見ばやと存じ候。いかにあれに羯鼓鳴子 飾りたる舟を近う寄せよ。ワキツレ「あら不思 議や。此あたりにおいて。左近の尉が舟 あれ寄せよなどと云はうずる者こそ思ひ もよらね。これは旅人にてありげに候。 あつぱれ存外なる者かな。ワキ「あの舟よ せよとこそ。ワキツレ「これはなか/\不審な りとて。漕ぎ浮べたる鳥追舟。さし近づ けてよく/\見れば。これは日暮殿にて 御座候ふか。ワキ「あら珍らしや左近の尉。 あれなるは汝が子にてあるか。子方「いや これは日暮殿の子にて候。ワキ「さてあれ なるは汝が母か。子「さん候母御にて御 入り候。ワキ「それは何とて賎しき業をば 致すぞ。子「父は在京とて。また音信も候 はず。頼みたる左近の尉。此秋の田の群 鳥を追へ。さなくば親子もろともに。我

が家の住まひかなふまじと。いふ言の葉 の恐ろしさに。身をすて舟に羯鼓を打ち。 ならはぬ業を汐干の浪。あさましき身と なりて候。ワキ詞「言語道断の事。それ弓取 の子は胎内にてねぎことを聞き。七歳に て親の敵を討つとこそ見えたれ。況んや 汝十歳に余り。さこそ無念にありつらん な。唯これと申すも某が永々在京の故 なれば。一しほ面目なうこそ候へ。唯今 左近の尉を討つて捨てうずるにてある ぞ。此方へ来り候へ。いかに左近の尉。お のれは不得心なる者かな。汝をめのとに 附け置く上は。さこそ煩もありつらん。 いかさま国に下るならば。如何やうなる 恩賞をもなどと。都にてあらましのかひ もなく。結句主を追つ下げて。下人に使 ふべき謂ばしあるか。何とて物をば云は ぬぞ。シテ「めのとの科もさむらはず。唯 久々に捨ておきたる。花若が父の科ぞと

よ。あやまつて仙家に入りて。半日の客 たりといへども。故郷に帰つて纔に。七 世の孫にあへるとこそ。承りて候へとよ。 況んや十箇年の月日あり/\て。けふし もかゝる憂き業を。みゝえ申すは不祥な り。地「唯願はくは此程の。恨をわれら申 すまじ。左近の尉が身の科を。親子に免

しおはしませ。ワキ「此上は。いなとはい かゞ稲莚の。地「小田守も秋過ぎぬはやは やゆるす左近の尉。キリ「さて其後にかの 人は。/\。家を花若つぎ桜。若木の里に かくれなき。五常正しき弓取の末こそ久 しかりけれ。末こそ久しかりけれ。