官人 従者 富士の妻 富士の女

ワキ詞「これは萩原の院に仕へ奉る臣下な り。さても内裏に七日の管絃の御座候ふ により。天王寺より浅間と申す楽人。こ れはならびなき太鼓の上手にて候ふを召 し上せられ。太鼓の役を仕り候ふ所に。 又住吉より富士と申す楽人。これも劣ら ぬ太鼓の上手にて候ふが。管絃の役を望 み罷り上りて候。此由きこしめされ。富士 浅間いづれも面白き名なり。さりながら 古き歌に。信濃なる浅間の嶽も燃ゆると いへば。詞「富士の煙のかひや無からんと 聞く時は。名こそ上なき富士なりとも。

あつぱれ浅間は増さうずるものをと勅諚 ありしにより。重ねて富士と申す者もな く候。さる程に浅間此由を聞き。にくき 富士が振舞かなとて。かの宿所に押しよ せ。あへなく富士を討つて候。まことに不 便の次第にて候。定めて富士が縁の無き ことは候ふまじ。もし尋ね来りて候はゞ。 形見を遣はさばやと存じ候。 シテ子方二人次第「雲の上なほ遥なる。/\富士の 行方をたづねん。シテ「これは津の国住吉 の楽人。富士と申す人の妻や子にて候。 さても内裏に七日の管絃のましますによ

り。天王寺より楽人めされ参る由を聞き。 妾が夫も太鼓の役。二人「世に隠無けれ ば。望み申さん其ために。都へのぼりし 夜の間の夢。心にかゝる月の雨。下歌「身 を知る袖の涙かと。明かしかねたる夜も すがら。上歌「寝られぬまゝに思ひ立つ。 /\。雲井やそなた故郷は。跡なれや住 吉の松の隙より眺むれば。月落ちかゝる 山城もはや近づけば笠をぬぎ。八幡に祈 りかけ帯の。むすぶ契の夢ならで。うつ つに逢ふや男山。都にはやく着きにけり 都にはやく着きにけり。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。都に着きて候。 此処にて富士の御行方を尋ねばやと 存じ候。いかに案内申し候。狂言シカ%\「。 シテ「これは富士がゆかりの者にて候。富 士に引き合はせられて賜はり候へ。狂言シカ%\「。 ワキ詞「富士がゆかりと申すはいづ くにあるぞ。シテ「これに候。ワキ「さてこ

れは富士がため何にてあるぞ。女「恥かし ながら妻や子にて候。ワキ「なう富士は討 たれて候ふよ。シテ「何と富士は討たれた ると候ふや。ワキ「なか/\の事富士は浅 間に討たれて候。シテ「さればこそ思ひ合 せし夢の占。重ねて問はゞなか/\に。 浅間に討たれ情なく。地「さしも名高き富 士はなど。煙とはなりぬらん。今は歎く に其かひもなき跡に残る思子を。見るか らにいとゞ猶すゝむ涙はせきあへず。 ワキ詞「今は歎きてもかひなき事にてある ぞ。是こそ富士が舞の装束候ふよ。そ れ人の歎には。形見に過ぎたる事あらじ。 これを見て心を慰め候へ。シテ「今までは 行方も知らぬ都人の。妾を田舎の者と思 し召して。偽り給ふと思ひしに。誠にし るき鳥甲。月日もかはらぬ狩衣の。疑ふ 所もあらばこそ。痛はしやかの人出で給 ひし時。みづから申すやう。天王寺の楽

人は召にて上りたり。御身は勅諚なき に。押して参れば下として。上を計るに 似たるべし。其うへ御身は当社地給の楽 人にて。明神に仕へ申す上は。何の望の あるべきぞと申しゝを。知らぬ顔にて 出で給ひし。地下歌「その面影は身に添へど まことの主は亡きあとの忘形見ぞよしな き。上歌「かねてより。かくあるべきと思 ひなば。/\。秋猴が手を出し。斑狼が 涙にても留むべきものを今更に。神なら ぬ身を恨みかこち。歎くぞあはれなる歎 くぞあはれなりける。物着「。 シテ詞「あら恨めしやいかに姫。あれに夫 の敵の候ふぞやいざ討たう。子方「あれは 太鼓にてこそ候へ。思のあまりに御心乱 れ。筋なき事を仰せ候ふぞや。あら浅ま しや候。シテ詞「うたての人のいひ言や。あ かで別れし我が夫の。失せにし事も太鼓 故。たゞ恨めしきは太鼓なり。夫の敵よ

いざ打たう。子方「げに理なり父御前に。 別れし事も太鼓故。さあらば親の敵ぞか し。打ちて恨を晴らすべし。シテ「妾がた めには夫の敵。いざやねらはんもろとも に。子方「男の姿狩衣に。物の具なれや鳥 甲。シテ「恨の敵討ちをさめ。子方「鼓を 苔に。シテ「埋まんとて。地「寄するや鬨の 声立てゝ。秋の風より。すさまじや。 シテ「打てや/\と攻鼓。地「あらさてこり の。泣く音やな。 地歌「なほも思へば腹たちや。/\。怪し たる姿に引きかへて。心言葉も及ばれぬ。 富士が幽霊来ると見えて。よしなの恨 や。もどかしと太鼓討ちたるや。楽「。シテ「持 ちたる撥をば剣と定め。地「持ちたる撥を ば剣と定め。瞋恚の焔は太鼓の烽火の。 天にあがれば雲の上人。誠の富士颪に絶 えず揉まれて裾野の桜。四方へばつと散 るかと見えて。花衣さす手も引く手も。

伶人の舞なれば。太鼓の役は。本より聞 ゆる。名の下空しからず。たぐひなやな つかしや。 ロンギ地「げにや女人の悪心は。煩悩の雲晴 れて五常楽を打ち給へ。シテ「修羅の太鼓 は打ちやみぬ。此君の御命。千秋楽と打 たうよ。地「さてまた千代や万代と。民も 栄えて安穏に。シテ「太平楽を打たうよ。 地「日も既に傾きぬ。/\。山の端をなが めやりて招きかへす舞の手の。うれしや

今こそは。思ふ敵は打ちたれ。打たれて 音をや出すらん。我には晴るゝ胸の煙。 富士が恨を晴らせば涙こそ上なかり けれ。 キリ「これまでなりや人々よ。/\。暇 申してさらばと。伶人の姿鳥甲。皆ぬ ぎすてゝ我が心。乱笠乱髪。かゝる思は 忘れじと。また立ちかへり太鼓こそ憂き 人の形見なりけれと。見置きてぞ帰りけ る後見置きてぞ帰りける。