契りし女(狂女) 契りし男

ワキ詞「これは下京辺に住まひするものに て候。われさる子細あつて播磨の国に下 り。久しく室の津に逗留の間。相馴れし 女の候ふに都に上りなば。必ず迎へ妻と なすべき由堅く契約申して候。されば此

程室の津へ迎へを遣わし候所に。かの女 居候はぬ由申し候ふ間。今は尋ぬべき様 もなく候。又今日は夏越の祓にて候ふ程 に。賀茂の明神に参詣申し。かの逢瀬を も願はゞやと存じ候。

狂言「これは此あたりに住居仕る者にて 候。今日は水無月祓にて候程に。糺へ参 らばやと存じ候。ワキ「なう是なる人は糺 へ御参り候ふか。某も御供申し候ふべし。 狂言「見申せば都の人にてありげに候ふ が。不知案内なるやうに仰せ候ふよ。 ワキ「仰の如く都の者にて候へども。久し く田舎に候ひて罷り上り候ふ故斯様に申 し候。狂言「げに/\左様の事も候ふべし。 さらば御供申し候はん。ワキ「此頃都には いかやうなる珍しき事か候。狂言「御存の 如く都は広き事にて候ふ程に。種々珍し き事も多く候。先此御手洗に参りて面白 き事の候。ワキ「いかやうなる事の候ふぞ。 狂言「若き女物狂の候ふが。巫のやうな る有様にて。水無月祓の輪を持ち。人々 に茅の輪の謂を申してくゞらせ候ふが。 是非もなく面白う舞ひ遊び候。これを見 せ申し候ふべし。ワキ「さらば其物狂を見

うずるにて候。狂言「何かと物語申して参 り候ふ程に。はや糺へ参りて候。御覧候 へ殊の外群集にて候。かの物狂を待ちて 見せ申し候ふべし。 シテサシ一声「行く水に数かくよりも儚きは。思 はぬ人を思妻の。跡を慕ひて上り瀬の。 清き流や中賀茂の。御手洗川に集うふ君。 今日の夏越の祓して。此輪越えさせ給へ とよ。恥ずかしや人は何とも白波の。地「木 綿しで掛くる。御祓川。シテ「恋路をた だす神ならば。地「などか逢瀬のなかる べき。 シテサシ「げにや数ならぬ。身にもたとへ在原 の。跡は昔に業平の。此川波に恋せじと。 かけし御祓も大幣の。ひくて数多の人心 頼むかひなきかねことかな。とは思へど も我は又。うきねに明かす水鳥の。 地下歌「賀茂の河原に御祓して逢瀬をいざや祈 らん。夏と秋。行きかふ空の通路は。/\。

かたへ涼しき風ぞ吹く。御手洗川は濁る とも。すみてます賀茂の宮。誓糺の神な らば。頼をかけて憂き人に。廻り逢ふべ き小車の賀茂の河原に着きにけり賀茂の 河原に着きにけり。 狂言「唯今申す女物狂はこれにて候。詞 をかけ輪のいはれを申しさせて聞しめされ 候へ。ワキ「承り候。さらば詞をかけて謂 を聞かばやと思い候。いかにこれなる狂 女。見れば茅にて作りたる輪を持ちて。 人々に越えよと承り候。夏越の祓のいは れこそ聞きたう候へ。シテ「わらはは狂人 なれども。祓の謂を申して聞かせまゐら せ候ふべし。ワキ「さらばねんごろに語ら れ候へ。 シテ「忝くも天照太神皇孫を。芦原の 中つ国の御主と定め給はんとありしに。 荒ぶる神は飛び満ちて。蛍火の如くなり しを。事代主の神なごめ払ひ給ひしこそ。

今日の夏越の始なれ。さらば古き歌に。 さばへなす荒ぶる神もおしなめて。今日 はなごしの祓なるなん。詞「さてさばへな すとは夏の蝿の飛び騒ぐが如くに。障 をなす神をいへり。かゝる畏き祓へとも。 思ひ給はで世の人の。ワキ「祓をもせず輪 をも越えず。シテ「越ゆればやがて輪廻を 免る。ワキ「すはや五障の雲霧も。シテ「今 みなつきぬ。ワキ「時を得て。地「水無月 の。/\。夏越の祓する人は。千年の 命。延ぶとこそ聞け。輪は越えたり御祓 の。この輪をば越えたり。真如の月の輪の いはれを知らで人を笑ひそよ。もし悪し き友あらば祓い除けて交へじ身に祓ひの けて交へじ。輪越えさせ給へやこの輪越 えさせ給へや。名をえてこゝぞ賀茂の宮。 名をえてこゝぞ賀茂の宮に。参らせ給は ば御祓川の浪よりも。この輪をまづ越え て。身を清めおはしませ。千早振る。神の

いがきも越えつべし。もと来し方の。道 を尋ねて。迷ふ事はなくとも異方な通ひ 給ひそ。今日は夏越の輪をこえてまゐり 給へや。シテ「神山の。二葉の葵年ふりて。 地「雲こそかゝれ木綿鬘の。神代今の代お しなめて。けふはなごしの祓ひなごめ静 めて。心ぞ清き御祓川の。浪の白和幣。 麻の葉の青和幣。いづれも流し捨て衣の。 身を清め心すぐに。本性になりすまして いざや神にまゐらんこの賀茂の神にまゐ らん。 ワキ詞「いかに申し候。この烏帽子を召さ れて。面白う舞うて御見せあれと人々の 御所望にて候。物着「。シテ「げにや臨時の祭に は。かざしの花を賜はるとかや。妾も烏 帽子を打ち着つゝ。神の御前に狂はまし。 賀茂川の。後瀬静かに後も逢はん。詞「妹 にはわれよ今ならずともと聞く時は。祈 る願も頼もしや。ワキ「げに濁なきこの神

の。御心なれや賀茂の川。シテ「今この水 に影をうつす。舞の袖こそ種々の。ワキ「心 を種の手向草。シテ「さるにても。よそ には何と。御祓川。中ノ舞「。ワカ「御祓川。 水も緑の。山かけの。地「賀茂の宮居の。 御手洗川に。映る面影/\。シテ「あさま しや。本より狂気の我が身なれば。地「見 しにもあらず。おのづから。映る姿は恥 かしや。歯根も眉も。乱髪の。賀茂の社 へすご/\と。歩みよるべの水のあや。 くれはとりくれ%\と。倒れ伏してぞ泣 き居たる。 ロンギ地「不思議やさては別れにし。その妻 琴のひきかへて。衰ふる身ぞ痛はしき。 シテ「声はその。人と思へどわれながら。 現なき身の心ゆゑ。たゞ夢としも思ひか ね。胸うち騒ぐばかりなり。地「げにや思 へば影頼む。恵普き室の戸に。シテ「立 つ神垣も隔なき。地「御名もかはらぬ。

シテ「賀茂の宮居。地「実にまことありがた や。誓ひは同じ名にしおふ。室君の操を知 るもたゞこれ。糺の御神の御恵なりと同

じく。二たび伏し拝みて妹背うち連れ帰 りけり妹背うち連れ帰りけり。