中将姫 中将姫従者 乳母侍従 横佩豊成 従者三四人 乳母侍従

ワキツレ「かやうに候ふ者は。奈良の都横佩の 右大臣豊成公に仕へ申す者にて候。扨も 姫君を一人御持ち候ふを。さる人の讒奏 により。大和紀の国の境なる。雲雀山にて 失ひ申せとの仰にて候ふ程に。これまで 御供申して候へども。いかにして失ひ申 すべきと存じ。柴の庵を結びとかくいた はり申し候。さる程に侍従と申す乳母。 春は木々の花を手折り。秋は草花を取り て里に出で。往来の人にこれを代なし。か の姫君を過し申し候。今日も侍従を呼び 出し。里へ下さばやと存じ候。いかに申 すべき事の候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキツレ「けふも又里へ御出で候へ。シテ「さら ば姫君に御暇を申し候ふべし。ワキツレ「やが

て御暇を申し里へ御出で候へ。シテ「いか に申すべき事の候。今日も里へ出でてや がて帰り候ふべし。子方サシ「げにや寒竃に煙 絶えて。春の日いとゞ暮し難う。シテ「弊 室に灯消えて。秋の夜なほ長し。家貧に しては親知少く。賎しき身には故人疎し。 親しきだにも疎くなれば。下歌詞「よそ人は いかで訪ふべき。上歌「さなきだにせばき 世に。/\。陰れ住む身の山深みさらば 心のありもせで。たゞ道せばき埋草露い つまでの身ならまし/\。かくて煙も絶 え%\の。/\。光の陰も惜しき間に。 よその情を頼まんと。草の枢を引きたて て。又里へこそ出でにけれ/\。 ワキ次第立衆「傾く峰の雲雀山。/\。上るや雲

路なるらん。ワキ詞「これは横佩の右大臣豊 成とは我が事なり。ワキ立衆「それ狩場は四季 の遊にて。時をりふしの興を増す。 上歌「梓の真弓春くれば。/\。霞む外山 の桜狩。雨は降り来ぬ同じくは。濡ると も花の。木蔭に宿らん。さて又月は夜を残 す。雪にはあくる交野の御野禁野につゞ く天の川。空にぞ雁の。声は居る/\。 シテサシ一声「さつき待つ花橘の香をかげば。 昔の人の袖の香ぞする。詞「げにや昔も君 のため。故ある果を集めつゝ。常世の国 まで行きしぞかし。われも主君の御為に。 色ある花を手折りつゝ。葉末に結ぶ露の 御身を。残しやすると思草。いろ/\の。 上翔「頃をえて。咲く卯の花の杜若。地「紫染 むる山ぐさの。シテ「色香にめでて花召さ れ候へ。地「月は見ん。月には見えじなが らへて。/\。憂き世を廻る影もはづか しの森の下草咲きにけり花ながら刈りて

売らうよ。日頃へて。待つ日はきかず時 鳥。匂求めて尋ねくる。花橘や召さる る/\。 トモ詞「いかに尋ね申すべき事の候。其花 をば何の為に持ち給ひて候ふぞ。シテ詞「さ ん候これは故ある人に参らせん為に持 ちて候。何れにても候へ色香にめでて召 され候へ。花檻前に笑んで声いまだ聞か ず。鳥林下に鳴いて涙つきがたし。げに も尽きぬは花の種。いろ/\なれや紅 は。いづれ深百合深見草。御心よせに召 され候へとよ。トモ「げに面白き売物か な。さてその花を売る事は。分きて謂の あるやらん。シテ「あらむつかしとお尋 あるや。召されまじくはお心ぞとよ。 同「いろ/\の。/\。人の心は白露の。 枝に霜は置くともなほ常磐なれや橘の。 目ざましぐさの戯。そなたの身には何 事も包む事はなくとも。こし方なれや古

をも忍ぶ草を召されよや忍ぶ草を召され よ。シテ「麻裳よい。同「麻裳よい。紀の関 守が手束弓。いるさか帰るさかいづれに てもましませ。などや花は召されぬあ ら花すかずの人々や花すかぬひとぞをか しき。 トモ詞「さらばこの花を買ひ取り候ふべ し。又御身のこし方を懇に御物語り候 へ。シテ「春霞。立つを見捨てゝ行く雁は。 地「花なき里に住みや習へると。心そらな る疑かな。シテサシ「款冬あやまつて暮春の 風に綻び。同「又躑躅は夜遊の人の折をえ て。驚く春の夢のうち。胡蝶の遊び色 香にめでしも皆これ心の花ならずや。 シテ「実に面白き遊花の友。同「春の心や惜 しむらん。 クセ「思へ桜色に。染めし袂の惜しけれ ば。衣更へ憂き。けふにぞありける。そ れのみかいつしかに。春を隔つる杜若。

いつから衣はる%\の。面影残るかほよ 鳥の。鳴きうつる声まで身の上に聞く哀 さよ。かくてぞ花にめで。鳥を羨む人心。 思ひの露も深見草の。しげみの花衣。野を 分け山に出で入れども。さらに人は白玉 の。思はうちにあれど色になどやあら はれぬ。シテ「さるにても。馴れしまゝに ていつしかに。同「今は昔に奈良坂や。児 の手柏の二面。とにもかくにも故郷の。 よそめになりて葛城や。高間の山の嶺続 き。こゝに紀の路の境なる雲雀山に隠れ 居て。霞の網にかゝり。目路もなき谷か げの。鵙の草ぐきならぬ身の。露に置か れ雨にうたれ。かくても消えやらぬ御身 の果ぞ痛はしき。遠近の。シテ「遠近の。 同「たづきも知らぬ。山中に。おぼつかな くも。呼子鳥の。雲雀山にや。待ち給ふ らん。いざや帰らん。/\。中ノ舞「。 ワキ詞「やあ如何に御事はめのとの侍従に

てはなきか。豊成をば見忘れてあるか。 さても我が姫よしなき者の讒奏により失 ひしかども。科なき由を聞き後悔すれど も適はず。まことや御事が計として。 この雲雀山の谷陰に。柴の庵を結び隠し 置きたるとは聞きしかども真しからぬ所 に。今おことを見てこそさてはと思へ。 姫はいづくにあるぞ包まず申し候へ。 シテ「これは仰とも覚えぬものかな。人の かごとをお用ひありて。失ひ給ひし中将 姫の。何しにこの世にましますべき。い かに御尋ありとても。詞「今は御身も夏草 の。茂に交る姫百合の。知られぬ御身な り。何をか尋ね給ふらん。 ワキ詞「げに/\それはさる事なれども。先 非を悔ゆる父が心。涙の色にも見ゆらん ものを。はやあり所を申すべし。シテ「ま ことさやうに思しめすか。ワキ「なか/\ 諸天氏の神も。正に照覧あるべきなり。

シテ「さらばこなたへ御いであれと。そこ とも知らぬ雲雀山の。草木をわけて谷陰 の。栞を道に足引の。地「山ふところの空 木に。草をむすび草を敷きて。四鳥の塒 に親と子の。思はず帰り逢ひながら。互 に見忘れて。たゞ泣くのみの心。げにや

世の中は。定なきこそ定なれ。夢ならば 覚めぬまに。はやとく/\とありしかば。 乳母御手を引き立てゝ。お輿に乗せ参ら せて。御悦の帰るさに。奈良の都の八 重桜咲きかへる道ぞめでたき/\。