延喜帝の臣下 従者 蝉丸 逆髪

ワキ、ワキツレ二人、次第「定めなき世のなか/\に。/\ 憂きことや頼なるらん。ワキ「これは延喜 第四の御子。蝉丸の宮にておはします。 三人「実にや何事も報有りける浮世かな。 前世の戒行いみじくて。今皇子とはなり 給へども。襁褓のうちよりなどやらん。 両眼盲ひまし/\て。蒼天に月日の光な く。暗夜に灯。暗うして。五更の雨も。 止む事なし。ワキ「明かし暮らさせ給ふ所 に。帝如何なる叡慮やらん。三人「密かに具 足し奉り。逢坂山に捨て置き申し。御髪 をおろし奉れとの。綸言出でてかへらね ば。御痛はしさは限なけれども。勅諚 なれば力なく。下歌「足弱車忍路を雲井

のよそに廻らして。上歌「しのゝめの。空 も名残の都路を。/\。今日出で初めて 又いつか。帰らん事も片糸の。よるべな き身の行方。さなきだに世の中は。浮木 の亀の年を経て。盲亀の闇路たどり行く。 迷の雲も立ちのぼる逢坂山に。着きにけ り逢坂山に着きにけり。 ツレ詞「いかに清貫。ワキ詞「御前に候。 ツレ「さて我をば此山に捨て置くべきか。 ワキ「さん候宣旨にて候程に。これま では御供申して候へども。何くに捨て置 き申すべきやらん。さるにても我が君は。 堯舜より此方。国を治め民を憐れむ御事 なるに。かやうの叡慮は何と申したる御

事やらん。かゝる思もよらぬことは候は じ。ツレ詞「あら愚の清貫が言ひ事やな。本 より盲目の身と生るゝ事。前世の戒行拙 き故なり。されば父帝も。山野に捨てさ せ給ふ事。御情なきには似たれども。此 世にて過去の業障を果し。後の世を助け んとの御謀。これこそ誠の親の慈悲よ。 あら歎くまじの勅諚やな。ワキ詞「宣旨にて 候ふ程に。御髪をおろし奉り候。ツレ詞「こ れは何と云ひたる事ぞ。ワキ「是は御出家 とてめでたき御事にて渡らせ給ひ候。物着「。 ツレ「実にやかうくわんもとひを切り。半 だんに枕すと。唐土の西施が申しけるも。 かやうの姿にてありけるぞや。ワキ「此御 有様にては。中々盗人の恐も有るべけれ ば。御衣を賜はつて簑と云ふ物を参らせ 上げ候。ツレ「これは雨による田簑の島と よみ置きつる。簑と云ふ物か。ワキ詞「又雨 露の御為なれば。同じく笠を参らする。 <285a> ツレ「これは御侍御笠と申せとよみ置き つる。笠と云ふ物よなう。ワキ詞「又此杖は 御道しるべ。御手に持たせ給ふべし。 ツレ「実に/\是も突くからに。千年の坂 をも越えなんと。彼の遍照がよみし杖か。 ワキ「それは千年の坂行く杖。ツレ「こゝは 所も逢坂山の。ワキ「関の戸ざしの藁屋の 竹の。ツレ「杖柱とも頼みつる。ワキ「父帝 には。ツレ「捨てられて。地「かゝる憂き世 に逢坂の。知るも知らぬもこれ見よや。 延喜の皇子の成り行く果ぞ悲しき。行人 征馬の数々。上り下りの旅衣。袖をしを りて村雨の振り捨て難き。名残かな振り 捨てがたき名残かな。さりとてはいつを 限に有明の。尽きぬ涙を押さへつゝ。早 帰るさになりぬれば。皇子は跡に唯独。 御身に添ふ物とては。琵琶を抱きて杖を 持ち臥し転びてぞ泣き給ふ臥しまろびて ぞ泣きたまふ。 <285b> シテ、サシ一声「これは延喜第三の御子。逆髪とは 我が事なり。我皇子とは生るれども。いつ の因果の故やらん。詞「心より/\狂乱し て。辺土遠郷の 狂人となって。 翠の髪は空さま に生い上つて撫 づれども下ら ず。詞「いかにあ れなる童どもは 何を笑ふぞ。何 我が髪の逆さま なるがをかしい とや。実に/\ 逆さまなる事は をかしいよな。 さては我が髪よりも。汝等が身にて我を 笑ふこそ逆さまなれ。詞「面白し/\。是 等は皆人間目前の境界なり。夫れ花の種 <285c> は地に埋もつて千林の梢に上り。月の影 は天にかゝつて万水の底に沈む。是等を ば皆何れが順と見逆なりと言はん。我は 皇子なれども。庶民に下り。髪は身上よ り生ひ上つて星霜を戴く。これ皆順逆 の二つなり。面白や。カケリ「柳の髪をも風 <286a> は梳るに。地「風にも解かれず。シテ「手に も分けられず。地「かなぐり捨つるみての 袂。シテ「抜頭の舞かやあさましや。 地歌「花の都を立出でて。/\。憂き音に 鳴くか鴨河や。末しら河を打ち渡り。粟 田口にも着きしかば今は誰をか松坂や。 関の此方と思ひしに。跡になるや音羽山 の名残惜しの都や。松虫鈴虫きり%\す の。鳴くや夕陰の山科の里人も咎むな よ。狂女なれど心は清滝川と知るべし。 シテ「逢坂の。関の清水に影見えて。地「今 や引くらん望月の。駒の歩も近づくか。 水も走井の影見れば。我ながら浅ましや。 髪は蓬を戴き黛も乱れ黒みて。実に逆 髪の影映る。水を鏡とゆふ波の現なの我 が姿や。ツレ、サシ「第一第二の絃は索々として 秋の風。松を払つて疎韻落つ。第三第四の 宮は。我蝉丸が調べも四つの。をりからな りける村雨かな。あら心凄の夜すがらや <286b> な。世の中は。とにもかくにも有りぬべ し。宮も藁屋も果てしなければ。 シテ「不思議やなこれなる藁屋の内より も。撥音けだかき琵琶の音聞ゆ。そもこ れ程の賎が家にも。かゝる調べのありける よと。思ふにつけてなどやらん。世にな つかしき心地して。藁屋の雨の足音もせ で。ひそかに立ちより聞き居たり。 ツレ「誰そや此藁屋の外面に音するは。此 程をり/\訪はれつる。博雅の三位にて ましますか。シテ詞「近づき声をよく/\ 聞けば。弟の宮の声なりけり。なう逆髪 こそ参りたれ。蝉丸は内にましますか。 ツレ「何逆髪とは姉宮かと。驚き藁屋の戸 を明くれば。シテ「さも浅ましき御有様。 ツレ「互に手に手を取りかはし。シテ「弟の 宮か。ツレ「姉宮かと。地「共に御名をゆふ 付の。鳥も音を鳴く逢坂の。せきあへぬ 御涙。互に袖やしをるらん。 <286c> 地クリ「夫れ栴檀は二葉より香ばしといへ り。ましてや一樹の宿として。風橘の 香を留めて。花も連なる。枝とかや。 シテ、サシ「遠くは浄蔵浄眼早離速離。近くは 又応神天皇の御子。地「難波の皇子菟道の 御子と。互に即位謙譲の御志。皆これ 連理の情とかや。シテ「さりながらこゝは 兄弟の宿とも。地「思はざりしに藁屋の内 の。一曲なくはかくぞともいかで調の四 つの緒に。シテ「引かれてこゝに。よるべ の水の。地「浅からざりし契かな。 クセ「世は末世に及ぶとても。日月は地に 落ちぬ。習とこそ思ひしに。我等如何な れば。わうじを出でてかくばかり。人臣 にだに交はらで。雲居の空をも迷ひ来て 都鄙遠境の狂人路頭山林の賎となつて。 辺土旅人の憐をたのむばかりなり。さる にても昨日までは。玉楼金殿の。床を磨 きて玉衣の。袖引きかへて今日は又かゝ <287a> る所の臥所とて。竹の柱に竹の垣軒も〓{$11728 トボソ。扉・枢のこと} もまばらなる。藁屋の床に藁の窓。敷く 物とても藁莚。これぞ古の錦の褥なるべ し。ツレ「たま/\こと訪ふものとては。 地「峯に木伝ふ猿の声。袖を湿ほす村雨 の。音にたぐへて琵琶の音を。弾き鳴ら し弾き鳴らし。我が音をも泣く涙の。雨 だにも音せぬ藁屋の軒のひま%\に。時 時月は漏りながら。目に見る事の叶はね ば。月にも疎く雨をだに。聞かぬ藁屋の 起臥を。思ひやられて痛はしや。 ロンギ、シテ「これまでなりやいつまでも。名残 は更に尽きすまじ。暇申して蝉丸。ツレ「一 樹の蔭の宿とて。それだに有るにまして 実に。兄弟の宮の御わかれ。とまるを思ひ やり給へ。シテ「実に痛はしや我ながら。 行くは慰む方もあり。留まるをさこそと ゆふ雲の。立ちやすらひて泣き居たり。 ツレ「鳴くや関路の夕烏。浮かれ心は烏 <287b> 羽玉の。シテ「我が黒髪の飽かで行く。 ツレ「別路とめよ逢坂の。シテ「関の杉村過 ぎ行けば。ツレ「人声遠くなるまゝに。 シテ「藁屋の軒に。ツレ「たゝずみて。地「互 <287c> にさらばよ常には訪はせ給へと。幽かに声 のする程聞き送りかへり見おきて泣く泣 く別れ。おはします泣く/\別れおはし ます。