粉河の某 祇王 祇王の父 従者

ワキ詞「是は紀州粉河の。何某にて候。扨も 某隣郷の何某と口論し。生捕分捕数を 知らず候。其中に未だ若き者を一人篭舎 させ。処の者に預け番を守らせ候ふ所に。 過ぎし夜囚人を逃して候ふ間。彼の番の 者を又篭舎させて候。弥番の事固く申 し付けばやと存じ候。いかに確かある。 狂言シカ%\「。篭の番を固く仕かり候へ。又囚人 の所縁などとて。尋ね来り候ふとも。対面 は固く禁制にてあるぞその由。心得候へ。 シテトモ次第「旅立つ雲の朝もよひ。旅立つ雲 の朝もよひ。糸巳の路にいざや急がん。 シテサシ「これは此程都に住む祇王と申す女 にて候。我遊女の道を嗜み。色香に移る花 鳥の。声の綾織る機薄の。糸珍らかに初月 の雲井にも名を残す身の。花の都の住居

かな。詞「また鄙の住居に年寄りたる父を持 ちて候ふが。篭舎とやらん聞こえ候ふほど に。老いの親とてさなぎだに。別の近き世 の中に。いかなる罪にてか沈み給はん。急 ぎ下りて今一目。見参らせばやと思ひつ つ。シテトモ二人下歌「春の霞と立出でて都の月の夜 深きに淀の渡りに立出づる。上歌「散りにし 花の山風の。/\。うどのゝ芦の露分けて。 旅衣禁野の雪をたどり行く交野の御野の 桜狩。雨はふり来ぬ同じくは。濡るとも陰 に宿らん濡るとも陰に宿らん。月住みよし や西の海。/\。遥に見えて沖津波互に かゝる夕雲の。和泉の国に着きしかば。 信太の森の葛の葉も。まだき下萌は春草の。 野山を分けて紀の国や。粉河の里に着き にけり/\。シテ詞「やう/\急ぎ候ふ程

に。これははや粉河の里に着きて候。こ の処にて父御の御行方を尋ね候へトモ「畏 まつて候。いかにこの内へ案内申し候。狂言 シカ%\「。是に渡り候ふ人は。都にかくれな き祇王と申す白拍子にてわたり候ふが。 父御に対面のため御下にて候。よきやう に御申あつて引合はされてたまはり候 へ。狂言シカ%\心得申して候。狂言シカ%\「。 その由申して候へば。かう/\御通あれ との御事にて候。ワキ「某に対面と仰せ候 ふ人は何所に渡り候ふぞ。シテ「恥かしな がら妾にて候。ワキ「最前も申す如く。総 じて囚人の所縁に対面は固く禁制にて候 へども。祇王御前の御事は。天下に隠れ もなき舞の上手にて候ふほどに。舞を舞 うて御見せ候はゞ。大法を破つて父御に 引合はせ申さうずるにて候。シテ「何と妾 に舞をまへと候ふや。ワキ「なか/\の事。 シテ「悲しやな親子の中の対面なるに。ま

はじといはゞ逢ふ事叶はじ。父に逢はせ て給はらば。其後舞を舞ひ候はん。 ワキ「仰尤にて候。さあらば先々引合は せ申さうずるにて候。その後舞をまうて 御見せ候へ。いかに誰かある。この人を 篭舎の者に。引き合はせ候へ。狂言シカ%\「。 ツレ「篭鳥雲を乞ひ帰雁は友を失ふ心。 それは鳥類にこそ聞け。人間に於てかく ばかり。故郷を去り友を忍びて。唯前生 の因果を思ふのみなり。南無や大慈大悲 の観世音。福寿海無量の誓のまゝに、善 所に迎へとりたまへ。シテ詞「いかに父御 前。祇王こそこれまで参りて候へ。かゝ る御有様を見参らすれば。目もくれ心乱 れ侍ふ。ツレ「あらふしぎや。御身は何と てこれまで来りたるぞ。シテ「さん候父 御の御祈の為。このほど清水に篭りて候 へば。何事やらん父御前は科を蒙り。篭 舎とやらん聞え候ふ程に。かちはだしに

て是まで参りて候。扨御科は何事にて候 ふぞ。ツレ「実に/\不審尤なり。委し く語つて聞せ候ふべし聞き候へ。シテ「さ らば御物語り候へ。ツレ「扨も当国に合戦 あつて。敵味方打ちうたるゝ事数を知ら ず。其中に生捕の者を此篭に入れ置かれ。 処の者に預け番を守らせられ候ふ所に。 某番に当り候ふ時。囚人を見れば未だ若 き人なり。然も此度の本人にてもあらず。 痛はしや人の上だに悲しきに。さこそは親 の歎き給ふらんと。思へば人を助くるは。 側ち菩薩の行なれば。たとひ我等は罪に あふとも。助けばやと思ふ一念に。篭を 開き夜にまぎれ落す。されば囚人を失ひ たる科のがれ難く。かく浅ましき有様な り。殊更けふの夕べとやらん。命の限と聞 えし所に。嬉しくも来り給ふものかな。 無き跡と云ひ最期と云ひ。余り便もなか りつるに。御身の来り給を見て。二

世安楽の思なりさりながら。不覚の涙こ ぼれ候。シテ詞「扨は人を助け給ふ御科なら ば。却つて御悦にやなり候ふべき。 慈眼視衆生の力を頼み。観世音を念じ 給ふべし。ツレ「実に/\それはさる事 なれども。今は命も惜しからず。唯願は しきは後生菩提。シテ「実に/\これも 御身の為には。御理とは思へども。我 ばかりなる親子の中。ツレ「此一世こそ 限なるを。シテ「此世をだにもそひ果て もせで。ツレ詞「せめては生老病死の中。 シテ「病苦をも受けず。ツレ詞「死をもまた で。シテツレ二人「剣の下に死なん事。いかなる 前世の報ぞや。地「逃れ得ぬ報を我に老 の身の。/\。又この後は何の世の。親子 となりて生るべき。これにつけても。唯今 の親と子の。一世の縁ぞ限なる。さりと ては我が頼む。大慈大悲の観世音。後の 世助けおはしませ/\。ワキ詞「いかに祇王

御前。をりふしこれに烏帽子の候。これ を着てとう/\舞を御舞ひ候へ。シテ「さ ん候父の有様を見るにつけて。涙にか きくれ更に舞ふべき便なし。然るべくは 御免し候へ。ワキ「不思議の事を仰せ候ふ ものかな。扨は我等を御たばかり候ふな。 ツレ「いかに祇王何事を申すぞ。ワキ「いや 最前これなる女性。おことに対面ありた き由仰せられし程に。承り及びたる一曲 をも見申さん為に。大法を破り囚人に対 面させて候ふ所に。対面あつて後舞を舞 はうずる由仰せられ候ひて。今は舞ふま じき由仰せ候おことは何と思ひ候ふぞ。 ツレ「尤もの御理にて候。いかに祇王。何 とて辞し申すぞ。元来この一曲は。父が教 へし事なれば。けふのいまはの光陰にも。 歌舞の菩薩の妙文たるべし。早々諷ひ給 ふべし。シテ「此上はとかく申すによしぞ なき。舞はずは我が身の科と云ひ。又は父

御の仰なれば。涙をおさへ心をしづ め。ツレ詞「父も昔を思ひ出の。涙ながらに 拍子をすゝめ。 シテ「曲を出して呂律の一つの。ツレ「悲の 声もろともに。シテ「これぞ限の親子の中。 ツレ「名残を見せて。シテ「花の袖。地次第「雪 を廻らす袂より。雪をめぐらす袂より 涙の雨や増さるらん。物着シテ「何事も。世 の有様の夢なれや。地「現なき今の。気色 かな。イロエクリ「実にや終に行く道とは 予て知りながら。昨日今日とは白雲の。 朝にたち。夕に消ゆる。シテサシ「電光朝露石 の火の。地「光の内外に遊ぶなる。胡蝶の 舞の花の袖。散り方になる親と子の。何 か諷ひて。奏づらん。クセ「実にや世の中 に。独とゞまる者あらば。若し我かはと。 身をや頼まんと詠ぜしも。実に理や我 ながら。唯今別るべき。父男の無き跡に。 残らん事も幾程の。世は空蝉の唐衣。う

すき契は親と子の。一世に限る夢の中 を。思へたゞ朝顔の日影待つ間の花盛。 シテ「いつまでか長柄の橋のながらへて。 地「かゝる憂世を渡らんと。思ふにつけて も。恨めしきは命なり。実にや世に住め ば。憂きこそ増されみよし野の。岩の かげ道。踏みならし行く水の。あはれ/\ なる父の事ぞ悲しき。つら/\。無常を 観ずるに。飛花落葉の風の前。風月延年 の遊楽も。狂言綺語の一てん。讃沸乗の 因縁迄。津の国の難波の事か法ならぬ遊 び戯れ数々の。シテ「声沸事をなしてこそ。 地「親の行くべき終の道。暗き闇をも灯 の光の影も明らけき真如安楽の彼の国 に。迎へ給へとさながらに。歌舞の菩 薩の光陰と。懇に念願し。これまでな りやいまは早。烏帽子直垂脱ぎ捨てゝ。 さめ%\と泣き居たり又さめ%\と泣き 居たり。シテ詞「あら悲しや妾を失ひ父を助

けて給はり候へ。ワキ「筋なき事を申すも のかな。たとひ男子の身なりとも。人の 命に代るべからず。然しも女性の御身とし て。思もよらぬことにて候。ツレ「いかに 祇王何事を歎くぞ。父が最期を進むべき に。徒に歎くことあるべからず。これな る珠数は黒谷の。法然上人より給はりた る御珠数。これをおことに与ふるなり。 父が跡をも弔の。念仏申し給ふべし。 シテ「又これなる御経は。此程父の御為に。 身を離さず読みたる御経なり。種々諸悪 趣の誓のまゝに。必ず成仏なり給はゞ。 同じ蓮に参り逢ふべしと。地「珠数とお経 を取りかはし。南無や大悲の観世音。 慈悲の眼の光にて臨終を守り給へや。 ワキ「余りに時刻も移り行けば。彼の老人 の首討たんと。太刀振り上ぐればこはい かに。御経の光眼にふさがり。取り落と したる太刀を見れば。二つに折れて段々

となる。シテツレ二人「父も祇王もこれを見て。 命終らん事をも分かず。唯茫然と呆れ居 たり。ワキ「いや/\何をか疑ふべき。唯 今読みつる御経の文。取り上げて見れば 疑なく。シテツレ二人「或遭王難苦。ワキ「臨刑 欲寿終。シテツレ二人「念彼観音力。ワキ「刀寿。三人「段 段壌。地「実にありがたや此文は。王難に遭

ふとても剣段々に折れなんの。経文は疑 はず。あらありがたの御経や。此上は老 人よ。/\。早助くるぞ帰れとの。御免 されに興かれば。祇王は父を引き立てゝ 悦の道に帰りけり。実に頼みても頼む べきは。これ観音の誓なりこれ観音の 誓なり。