関清次の妻 松浦某 従者

ワキ詞「これは九州松浦の何某にて候。偖 も某召使ひ候ふ関の清次と申す者。他郷 の者と口論し。念なう敵をば討つて候。さ りながら科人の事にて候ふ間。牢者させ て候。彼の者大剛のものにて候ふ間。番 の事かたく申しつけばやと存じ候。いか

に誰かある。狂言シカ%\「。ワキ「彼の者大剛 の者にてある間。番の事かたく仕り候 へ。狂言シカ%\「。 ワキ「何と清次が牢より抜けたると申す か。言語道断の事。さてこそ以前よりか たく申しつけてあるに。さやうに油断仕

りてあるぞ。さて彼の者の子はなきか。 狂言シカ%\「。ワキ「妻はなきか。狂言シカ%\「。 ワキ「さあらば急いでその女を連れて来り 候へ。狂言シカ%\「。 シテ「科人を召し篭められ候ふ上は。女ま での御罪科は余りに御情なうこそ候へ。 ワキ「いかに女。さても汝が夫の清次。今 夜牢を破り失せぬ。夫婦の事なれば知ら ぬ事はあるまじ。まつすぐに申し候へ。 シテ「もとより賎しき者なれば。我が身の 助かり候ふをこそ喜び候ふべけれ。妾に はかくとも申さず候ふほどに。夢にも知 らず候。ワキ「いや/\何と申すとも知ら ぬ事はあるまじ。まず/\落居のあらん ほど。夫の代に牢者させ。其在処をたゞ さんと。上歌地「今の女を引き立てゝ。/\。 いそぎ牢者になすべしと。さもあらげな き人心。情けなしとは思へども。殺害の科を 逃れ得ぬ。報のほどぞ無残なる/\。

狂言シカ%\「。ワキ詞「やあいかに汝は女に向ひ 何事を致すぞ。その野者げなるに由つて 清次をも牢より逃がいてあるぞ。所詮いま よりは鼓をかけて。一時づつ時を打つて 番を仕り候へ。狂言シカ%\「。 シテサシ「げにや思うちにあれば。色はほかに ぞ見えつらん。つゝめども。袖にたまら ぬ白玉は。人を見ぬ目の涙かな。狂言シカ ジカ「。ワキ「これは誠にてあるか。狂言シカ%\「。 ワキ「あら不便や立ち越え見うずるにて 候。やあいかに女。何ゆゑ狂気するぞとう けたまはる。人の心の花ならば。風の狂 ずるゆゑもあるべし。いはんや偕老同穴 と。契りし夫も行くへ知らで。のこる身 までも道せばき。なほ安らかぬ牢の。お もひの闇のせんかたなさに。物に狂ふは 僻事か。ワキ詞「げに/\夫のわかれ牢者 のおもひ。一方ならぬ身のなげきに。

物に狂ふは理なりさりながらいづくに夫 の在処を。知らせばやがて呼びつとて。汝 は牢より出すべしまつすぐに申し候へ。 シテ「これは 仰ともおぼ えぬものか な。たとひ 夫の在処を 知りたれば とて。あら はし夫を失 ふべきか。 其上夫の在 処を。夢う つゝにも知 らぬものを。 ワキ「優しき女の言事やと。詞「手づから牢 の戸を開き。はやこれまでぞとく出でよ。 シテ「御心ざしはありがたけれども。夫に

代れる此身なれば。此牢の内をば出づま じや。これこそ形見よなつかしや。地「無慙 や我が夫の。身に代りたる牢のうち。出 つまじや雨の夜の尽きぬ名残ぞ悲しき 西楼に月落ちて。花のあひだも添い果 てぬ。契ぞ薄き灯の。残りてころがるゝ。

影はづかしき我が身かな。 ワキ詞「言語道断。かゝる優しき事こそ候 はね。此上は夫婦ともに助くるぞとく出 て候へ。シテ「かほどに情けましまさば。始 よりかく憂き目を見せ給ふべきか。さる にても我が夫はいづくにあるらん。なう 心が乱れさむらふぞや。一セイ乱るゝは。柳 の髪か春雨の。地「涙にむせぶ心かな。 イロエ「。シテ詞「なう/\これなる鼓は何のた めに懸けられて候ふぞ。 ワキ「あれこそ時守の時を知る相図の鼓 よ。シテ「面白し/\。異国ぬもさるため しあり。かやうに鼓を懸けて時を守りし こともあり。其心を得て古き歌に。時守 の打ちます鼓声きけば。時にはなりぬ。 君は遅くて。地「遅くも君が来んまでぞ。 カケリ「。シテ詞「なう此鼓を打つて心が慰みた う候。ワキ「易き間の事いかようにも打つ て慰め候へ。

シテ「鼓の声も音にたてゝ。地「なく鷲の青 葉の竹。シテ「湘浦の浦や娥皇女英。地「諌 鼓苔むす此鼓。シテ「うつゝもなやなつ かしや。地上歌「鼓の声も時ふりて/\。 日も西山に傾けば。夜の空も近づく六つ の鼓打たうよ。五つの鼓は偽の。契あだ なる妻琴の。ひき離れいづくにか。我がご とく忍びねのやはら/\打たうよや。や はら/\打たうよ。四つの鼓は世の中に。 /\。恋といふ事も。恨といふ事もなきな らひならば。ひとり物は思はじ。シテ「九 つの。地「こゝのつの。夜半にもなりた るや。あら恋し我が夫の。面影に立ち たり。嬉しやせめてげに。身がはりに立ち てこそは。二世のかひもあるべけれ。此 牢出づる事あらじ。なつかしの此牢や。 あらなつかしの此牢。 ワキ詞「此上は諏訪八幡も御知見あれ。夫 婦ともに助くるぞはやとく出で候へ。

ワキ「げに此うへははさればとて。御偽はよ もあらじ。真は夫の在処。筑前の宰府に 知る人あれば。そなたへ行きてや候ふら ん。ワキ「いしくも隠さず申したり。詞しか も今年は我が親の。十三に当りたれば。科 ありとても助舟の。シテ「松浦の川や西の 海。ワキ「彼の国近き。シテ「極楽の。地「弥陀 誓願の誓かや。科を助くる憐の。あら ありがたやの御慈悲や。やがて時日を移さ ず/\。かくれし夫を尋ねつゝ。もとの 如くに帰りゐて。結ぶ契の末久に。松浦 の川や二世の縁。げにありがたき心かな /\。