良忍上人 里の女 桂子 桜子

ワキ次第「法の心も三つの名の。/\。大 和路いざや尋ねん。詞「これは大原の良忍 聖にて候。我融通念仏を国土に弘め候。

此度は大和路にかゝり。念仏をも弘めば とや思ひ候。道行「住みなれし大原の里を 立ち出でて。/\。なほ行末は深草山木

幡の闇をうち過ぎて。宇治の中宿井出の 里。すぐればこれぞ足引や。大和の国に 着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ間。ほどな う大和の国に着きて候。此処に三山と申 して名所のある由承り及びて候。此あた りの人に尋ねばやと思ひ候。シテ詞呼掛 「なう/\あれなる御僧。なにと御尋 ね候ふとも。これを知りたる人は少なか るべし。総じてこの山は。万葉第一に出 されたる三山の一つなり。耳無山ともみ なし山とも。語るによりて妄執の。よし ある昔の物語。閻浮にかへる里人の。耳無 山の池水に。沈みし人の昔がたり。よく よく問はせ給へとよ。ワキ詞「げに/\万葉 集に曰く。大和の国に三山あり。香山は 夫畝傍耳無山は女なり。これに依つて三 つにあらそふと書けり。此謂を委しく御 物語り候へ。シテ「まづ南に見えたるは香 山。西に見えたるは畝傍山。此耳無まで

は三つの山。一男二女の山ともいへり。 ワキ詞「さてかく山を夫とは。何しに定 め置きけるぞ。シテ「それはあの香久山に 住みける人。畝傍耳無二つの里に。二人 の女に契をこめて。二道かけて通ひしな り。ワキ「さてうねみ山の女の名をば。 シテ詞「桜子ときこえし色このみ。ワキ「耳 無山の女の名をば。シテ詞「桂子といは れし遊女なり。ワキ「さて争は。シテ「花 や緑。ワキ詞「契の色は。シテ「隔もなく。 地「一つの世に二道かけて三山の。名を聞く だにも久方の。天の香久山いつしかに。語 るもよそならず。わが耳無やうねみ山。 争ひかねて池水に。捨てし桂の身の果を 弔ひ給へ上人よ弔ひ給へ上人よ。 ワキ詞「なほ/\三山の謂委しく御物語り 候へ。地クリ「そも/\大和の国三山の物 語。世も古にならの葉や。かしはでの公 成といふ人あり。シテサシ「又其頃桂子桜子

とて。二人の遊女ありしに。地「彼のかし はでの公成に。 契をこめて玉手 箱。二道かくる さゝがにの。い と浅からぬ思夫 の。月の夜まぜ に行き通ふ住家 はうねみ耳無 山。シテ「里も二 つの采女のきぬ。 地「花よ月よと。 争ひしに。シテ「男 うつろふ花心。 かの桜子に靡き 移りて。耳無の 里へは来ざりけ り。地「其時桂子 恨みわび。さては我には変る世の夢も 暫しの桜子に心を染めて此方をば。シテ「忘 れ忍ぶの軒の草。地「はや枯れ%\に

なりぬるぞや。クセ「桂子思ふやう。もと よりも頼まれぬ。二道なればそのまゝに 有り果つべしと思ひきや。其うへ何事も。 時に随ふ世の習。ことさら春の頃なれ ば。盛なる桜子にうつる人をば恨むまじ 我は花なき桂子の。身を知れば春ながら。 秋にならんも理や。さるほどに起きも せず。寝もせで夜半を明かしては。春の ものとて長雨降る。夕暮に立ちいでて。 入相もつく%\と。南は香久山や。西は うねみの山に咲く。さくら子の里見れば。 よそめも花やかに。羨ましくぞ覚ゆる。 シテ「生きてよも明日まで人のつらから じ。地「この夕暮を限ぞと。思ひ定めて耳 無山の池水の。淵にのぞみて影うつる名 も月の桂の緑の髪もさながらに。池の玉 藻のぬれ衣。身を投げ空しくなり果てゝ。 此世には早みなし山。其名をあはれみて 跡弔はせ給へや

シテ詞「いかに申すべき事の候。妾をも名 帳に入れて賜はり候へ。ワキ詞「やすき間の 事。さて御名を承り候ふべし。シテ「名を ば桂子と遊ばし候へ。ワキなに桂子と申 し候ふや。シテ「よし/\名をば申すま 唯十念授け給へ。ワキ「げに/\さの みは問ひがたしと。掌を合はせて南無 阿弥陀仏。シテ詞「南無阿弥陀仏。二人「若 我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。 地「これまでなりや名帳の。名は桂子と 書き給へそれより外に我が名をば。い くたび問はせ給ふとも。言はじや聞かじ 耳無の。生けるものにはあらずとて池水 の底に入りにけり池水の底に入りにけ り。中入間「。 ワキ歌、待謡「耳無の池の玉藻のぬれ衣。/\。恨 もこゝに有明のその名も月の桂子の。な き跡いざや弔はん/\。。 <ツレ「なう上人。此みゝなしの山嵐に。吹

きさそはれて来りたり。これ/\助けた び給へ。詞我はあのうねみ山に住む。桜 子といはれし女なるが。風の狂ずる心乱 に。かやうに狂ひさぶらふなり。さ りとては上人よ。因果の花につき祟る。 嵐をのけてたび給へ。後シテ「あら羨ましの 桜子や。又花の春になるよなう。詞忘れ て年を経しものを。見よかし顔に桜子の。 花のよそ目も妬ましや。一声「光散る。月の 桂も花ぞかし。地「たれ桜子に。移るらん。 カケリ「。ツレ「盛とて。光を埋む花心。地争 ひかねて桂子が。シテ「恨ぞまさる。桜子 の。地「花も散りなば青葉ぞかし。シテ「な どや桂をへだつらん。ツレ「恥かしやなほ 妄執は有明の。侭きぬ恨を御前にて。懺 悔の姿を現すなり。シテ詞「あれ御らんぜ よ桜子の。よそめにあまる花心。ことわ り過ぐる景色かな。ツレ「もとより時ある 春の花。咲くは僻事なきものを。シテ詞「花

ものいはずと聞きつるに。など言の葉 を聞かすらん。ツレ「春いくばくの身にし あれば。影唇を動かすなり。シテ「さて 花は散りても。ツレ「又も咲かん。シテ「春 は年々。ツレ「頃は。シテ「弥生に。地「又 花の咲くぞや。/\。見ればよそめも妬 ましき。花のうはなり打たんとて。桂の 立枝を折り持ちて。みゝなしの山風。 さて懲りやさて懲りや。あらよそめを松 風春風も。吹き寄せて/\。雪と散れ桜 子。雲となれ桜子。花は根に帰れ。われ

も人知れず妬さも妬し後妻を。打ち散ら し打ち散らす。中に打てども去らぬは家 の。犬ざくら花に伏して吠え叫び悩み乱 るゝ花心。そねみの病となりし。因果の 焔の緋ざくら子。さて懲りやさて懲りや あらよそめをかしや。因果の報はこれま でなり。花の春一時の。恨を晴れて速 に。有明桜光そふ。月の桂子もろとも に。西に生るゝ一声の。御法を受くるな りあと弔いてたび給へ。