旅僧 里の女 浮舟の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此程 は初瀬に候ひしが。これより都に上らば やと思ひ候。道行「初瀬山。夕越え暮れし 宿もはや/\。檜原の外に三輪の山。 しるしの杉も。立ち別れ嵐とともになら の葉の。暫し休らふ程もなく。狛の渡や 足早み。宇治の里にも着きにけり/\。

詞「急ぎ候ふ程に。これは早宇治の里に着 きて候。暫く休らひ名所をも眺めばやと 思ひ候。 シテサシ一セイ「柴積船の寄る波も。なほたづきな き。憂き身かな。二ノ句「憂きは心の科ぞと て。たが世をかこつ。方もなし。住みは てぬ住家は宇治の橋ばしら。起居苦しき

思ひ草。葉末の露を憂き身にて。老い行 く末も白真弓。もとの心を歎くなり。下歌「と にかくに定なき世の影たのむ。上歌「月 日も受けよ行末の。/\。~に祈のかな ひなば。頼をかけて御注連縄。長くや世 をも。祈らまし長くや世をも祈らまし。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべ き事の候。シテ「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「此宇治の里に於て。古 いかなる人の住み給ひて候ふぞ委しく御 物語り候へ。シテ「処には住み候へども。 賎しき身にて候へば。委しき事をも知ら ず候さりながら。古この処には。浮舟 とやらんの住み給ひしとなり。同じ女 の身なれども。数にもあらぬ憂き身な れば。いかでかさまでは知り候ふべき。 ワキ詞「実に光源氏の物語。なほ世に 絶えぬ言の葉の。それさへ添へて聞かま ほしきに。心に残し給ふなよ。シテ詞「むつ

かしの事を問ひ給ふや。里の名を聞かじ といひし人もこそあれ。さのみは何 を問ひ給ふぞ。地歌「さなきだに古の。 /\。恋しかるべき橘の。小島が崎を 見渡せば河より遠の夕煙立つ河風に行く 雲の。あとより雪の色添へて。山は鏡を かけまくも。賢き世々にありながらなほ 身を宇治と。思はめやなほ身を宇治と思 はめや。 ワキ詞「なほ/\浮舟の御事委しく御物語 り候へ。地クリ「そも/\この物語と申す に。其品々も妙にして。事の心広ければ。 拾ひて云はん。言の葉の。シテサシ「玉の数に もあらぬ身の。そむきし世をやあらはす べき。地「まづ此里に古は。人々あまた住 み給ひける類ながら。取り分き此浮舟は 薫中将のかりそめに。すゑ給ひし名な り。クセ「人がらもなつかしく。心ざまよ し有りておほとかに過し給ひしを。物い

ひ。さがなき世の人の。ほのめかし聞え しを。色深き心にて。兵部卿の宮なん忍 びて尋ねおはせしに。織り縫ふ業のいと まなき。宵の人目も悲しくて。垣間見し つゝ。おはせしもいと不便なりし業なれ や。其夜にさても山住の。めづらかなり し有様の。心にしみて有明の。月澄み昇 る程なるに。シテ「水の面もくもりなく。 地「船さしとめし行方とて。汀の氷踏み分 けて。道は迷はずとありしも浅からぬ御 契なり。一方は長閑にて訪はぬ程経る思 さへ。晴れぬながめとありしにも。涙の 雨や揩ウりけん。とにかくに思ひわび。 此世になくもならばやと。歎きし末はは かなくて終に跡無くなりにけり終に跡な くなりにけり。 ワキ詞「浮舟の御事は委しく承りぬ。さて さて御身は何処に住む人ぞ。シテ「これは 此処にかりに通ひものするなり。妾が住

家は小野の者。都のつてに訪ひ給へ。 ワキ「あら不思議や。何とやらん事たがひ たるやうに候。さて小野にては誰とか尋 ね申すべき。シテ「隠はあらじ大比叡の。 杉のしるしはなけれども。横川の水の 住む方を。比叡坂と尋ね給ふべし。 地歌「なほ物の気の身に添ひて。悩む事な んある身なり法力を頼み給ひつゝ。あれ にて待ち申さんと。浮き立つ雲の跡もな く行く方知らずなりにけり行く方知らず なりにけり。中入間「。 ワキ詞「かくて小野には来れども。いづくを 宿と定むべき。歌「処の名さへ小野なれ ば。/\。草の枕は理や。今宵はこゝ に経を読み。かの御跡を。弔ふとかやか の御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「亡き影の絶えぬも同じ。涙川。よる べ定めぬ浮舟の。法の力を頼むなり。あ さましきや本より我は浮舟の。よる方わか

でたゞよふ世に。憂き名洩れんと思ひわ び。此世になくもならばやと。明暮思ひ 煩ひて。人皆寝たりしに。妻戸を放ち出 でたれば。風烈しう河波荒う聞こえしに。 知らぬ男の寄り来つゝ。誘ひ行くと思ひ しより。心も空になりはてゝ。カケリ「あふ さきるさの事もなく。地「我かの気色もあ さましや。シテ「あさましやあさましやな 橘の。地「小島の色は変らじを。シテ「此 浮舟ぞ。よるべ知られぬ。 地「大慈大悲の理は。/\ 。世に広けれ ど殊に我が。心一つに怠らず。明けては 出づる日の影を。絶えぬ光と仰ぎつゝ。

暮れては闇に。迷ふべき後の世かけてョ みしに。シテ「ョみし。まゝの観音の慈悲。 地「ョみしまゝの。観音の慈悲。初瀬の便 に横川の僧都に。見付けられつゝ。小野 に伴ひ。祈り加持して物の気のけしも。 夢の世になほ。苦は大比叡や。横川 の杉の。古き事ども。夢に現れ。見え給 ひ。今此聖も。同じ便に弔ひ受けんと。 思ひしに。思のまゝに。執心晴れて。都 卒に生まるゝ。うれしきといふかと思へ ば明け立つ横川。いふかと思へば明け立 つ横川の。杉の嵐や残るらん杉の嵐もや 残るらん。