小太郎 善光寺の住僧 花若 母(後ハ狂女)

ワキ次第「夢路も添ひて故郷に。/\。帰 るや現なるらん。詞「これは越後の国柏崎 殿の御内に。小太郎と申す者にて候。さ ても頼み奉りし人は。訴訟の事候ひて。 在鎌倉にて御座候ひしが。唯かりそめに 風の心地と仰せ候ひて。程なく空しくな り給ひて候。又御子息花若殿も。同じく 在鎌倉にて御座候ひしが。父御の御別を 歎き給ひ。何処ともなく御遁世にて候。 さる間花若殿の御文に。御形見の品々を 取りそへ。たゞ今故郷柏崎へと急ぎ候。 道行「乾しぬべき。日影も袖やぬらすら ん。/\今行く道は雪の下。一通り降る 村時雨。山の内をも過ぎ行けば。袖さえ まさる旅衣。碓氷の峠うち過ぎて。越後 に早く。着きにけり越後に早く着きに けり。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。故郷柏崎に着 きて候。まづ/\案内を申さうするにて

候。いかに申し候。鎌倉より小太郎がま ゐりて候それ/\御申し候へ。シテ詞「なに 小太郎とは。もし殿の御帰ありたるか。 あらめづらしや何とて物をば申さぬぞ。 ワキ「さん候これまでは参りて候へども。 何と申し上ぐべきやらん。更に思ひも弁 へず候。シテ「あら心もとなや。物をば申 さでさめ%\と泣くは。さて花若が方に 何事かある。ワキ「さん候花若殿は御遁 世にて御座候。シテ「何と花若殿が遁世した るとは。さては父の叱りけるは。など追 手をばかけざりしぞ。ワキ「いやさやうに も御座なく候。様々の御形見の物を持ち て参り候。シテ「何さま%\の形見とは。 さては花若が父の空しくなりたるな。此 程はそなたの風もなつかしく。便もうれ しかりつるに。形見を届くる音信は。中 中聞きても恨めしきぞや。たゞ仮初に立 ち出でて。やがてと言ひし其主は。地「昔

語に早なりて形見を見るぞ涙なる。 シテロンギ「さてや最期の折節は。いかな る事か宣ひし。委しく語り。おはしませ せめては聞いて慰まん。ワキ「唯故郷の御 事を。おぼつかなく思し召し。御最期ま でも人知れずひそかに御諚ありしなり。 シテ「実にやさこそはおはすらめ。三年離 れて其後は。我も御名残いつの世にかは 忘るべき。ワキ「御ことわりと思へども。 歎をとゞめおはしまし形見を御覧候 へ。シテ「実にや歎きても。かひなき世ぞ と思へば。地「形見を見るからにすゝむ涙 はせきあへず。 ワキ詞「花若殿の御文の候。これを御覧候 へ。シテ文「さても/\父御前。痛はりつか せ給ひ。程なく空しくなり給へば。心の 中の悲しさは。唯おぼしめしやらせ給へ。 我も帰りて御ありさま。見参らせたくは 候へども。思い立ちぬる修行の道。もし

や止められ申さんと。思う心を便にて。 心づよくも出づるなり。命つれなく候は ば。三年が内には参るべし。様々の形見 を御覧じて。御心を慰みおはしませと。 書いたる文の恨めしや。地下歌「なからん父 が名残には。子ほどの形見あるべきか。 上歌「父が別は如何なれば。/\。悲しみ 修行に出づる身の。などや生きてある。 母に姿を見みえんと。思う心のなかるら ん。恨めしの我が子や。うき時は。恨みな がらもさりとては。我が子の行方安穏に。 守らせ給へ神仏と。祈る心ぞ。なはれな る祈る心ぞあはれなる。 僧詞「かように候ふ者は。信濃の国善光寺 の住僧にて候。又こに渡候ふ人は。 いづくとも知らず愚僧を頼むよし仰せ候 ふ程に。師弟の契約をなし此ほど出家さ せ申して候。さる間毎日如来堂へ従ひ申 し候。今日も又参らばやと思ひ候。

後シテ詞一声「これなる童どもは何を笑うぞ。 何者に狂ふがをかしいとや。うたてやな 心あらん人は。訪ひてこそたぶべけれ。 それをいかにといふに。夫には死して別 れ。唯ひとり忘れ形見とも思ふべき。子 の行方をも白糸の。地「乱れ心や狂ふら ん。カケリ「。 シテサシ「実にや人の身のあだなりけりと。 誰かいひけん空言や。又思には死なれざ りけりと。詠みしもことわりや。今身の 上に知られたり。これもひとへに夫や子 の。故と思へば恨めしや。地下歌「うき身は 何と楢の葉の柏崎をば狂ひ出で。上歌「越 後の国府に着きしかば。/\。人目も分 かぬ我が姿。いつまで草のいつまでと。知 らぬ心は麻衣。うらはる%\と行くほど に。松風遠くさびしきは。常磐の里の夕 かや。我にたぐへてあはれなるは此里。 子故に身をこがしゝは野辺の木島の里と

かや。降れどもつもらぬ淡雪の。浅野と いふはこれかとよ。桐の花咲く井の上の。 山を東に見なして。西に向へば善光寺。 生身の弥陀如来。わが狂乱はさておきぬ。 死して別れし妻を導きおはしませ。 ワキツ詞「いかに狂女。御堂の内陣へは叶 ふまじきぞ急いで出で候へ。シテ詞「極重 悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽とこそ 見えたれ。ワキツレ「これは不思議の物狂か な。そもさやうの事をば誰が教へけるぞ。 シテ「教へはもとより弥陀如来の。御誓にて はましまさずや。唯心の浄土と聞く時は。 此善光寺の如来堂の。内陣こそは極楽の。 九品上生の台なるに。女人の参るまじき との御制戒とはそもされば。如来の仰せあ りけるか。よし人々は何ともいへ。声こ そしるべ南無阿弥陀仏。地「頼もしや。頼 もしや。シテ「釈迦は遣り。地「弥陀は導く 一筋に。こゝを去ること遠からず。是ぞ

西方極楽の上品上正の内陣にいざや 参らん。光明遍照十方の。誓ぞしるき この寺の。常の灯影頼む。夜念仏申せ 人々よ。夜念仏いざや申さん。 シテ詞「いかに申し候。如来へ参らせ物の 候。此烏帽子直垂は。別れし夫の形見な れども。形見こそ今はあだなれこれなく は。忘るゝひまもあらましものをと。詠 みしも思ひ知られたり。これを如来に参 らせて。夫の後生善所をも。祈らばやと 思ひ候。物着あらいとほしやこの烏帽子直 垂の主は。よろづ何事につきても闇から ず。弓は三物とやらんを射そろへ。歌連 歌の道も達者なりし上。又酒盛などのを りふしは。いで人々に乱舞まうて見せん とて。鎧直垂とりいだし。衣紋うつくし く着ないて。へりぬり取つて打ちかづき。 手拍子人に囃させて。扇おつ取り。鳴る は滝の水。

クリ地「それ一念称名の声の内には。摂 取の光明を待ち。聖衆来迎の雲の上に は。シテ「九品蓮台の。花散りて。地「異香 満ち/\て人に薫じ白虹地に満ちて。 列なれり。シテサシ「つら/\世間の幻相を観 ずるに飛花落葉の風の前には。有為の 転変をさとり。地「電光石火の影の中には 生死の去来を見ること。始めて驚くべき にはあらねども。幾夜の夢とまとはりし。 仮の親子の今をだに。添ひ果てもせぬ道 芝の露の憂き身の置き所。シテ「誰に問は まし。旅の道。地「これも憂き世のならひか や。クセ「悲の涙。眼にさへぎり思の煙胸 に満つ。つら/\これを案ずるに。三界 に流転してなほ人間の妄執の。晴れがた き雲の端の月の御影や明らけき。真如平 等の台に至らんとだにも歎かずして。煩 悩の絆に。結ぼほれぬるぞ悲しき。罪障 の山高く。生死の海深し。如何にとして

か此生に。此身を浮べんと。実に歎けど も人間の。身三口四意三の。十の道多か りき。シテ「されば始の御法にも。地「三界 一心なり。心外無別法心仏及衆生と聞く 時は。是三無差別なに疑のあるべきや。 己身の弥陀如来唯心の浄土なるべくは。 尋ぬべからず此寺の。御池の蓮の得ん事 をなどか知らざらん。唯願はくは影たの む。聳を力の助船。黄金の岸に至るべし。 そも/\楽を極むなる。教あまたにうま れ行く。道さま%\の品なれや。宝の池 の水。功徳池の。浜の真砂。かず/\の 玉の床。台も品々の楽をきはめ量なき 命の仏なるべしや。若我成仏十方の。世 界なるべし。シテ「本願あやまり給はずは。 地「今の我等が願はしき。夫の行方をしら 雲のたなびく山や西の空の。かの国に迎 へつゝ。一つ浄土の縁となし望を叶へ給 ふべしと。称名も鉦の音も。暁かけて

灯の。善き光ぞと仰ぐなりや。南無帰 命弥陀尊願をかなへ給へや。 ロンギ地「今は何をつゝむべき。これこそ 御子花若と。いふにもすゝむ涙かな。シテ 「我が子ぞと。聞けば余りに堪へかぬる。 夢かとばかり思ひ子のいづれぞさても不 思議やな。地「ともにそれとは思へども。 かはる姿は墨染の。シテ「見しにもあらぬ 面忘れ。地「母の姿もうつゝなきシテ「狂人 といひ。地「衰といひ。互いにあきれてあり ながら。よく/\見れば。園原の伏屋に 生ふる箒木の。ありとは見えて逢はぬと こそ。聞きし物を今ははや。疑もなき。 その母や子に逢ふこそ嬉しかりけれ逢ふ こそ嬉しかりけれ。