千満の母 稚児千満 三井寺住僧 従僧 狂女(千満の母)

シテサシ「南無や大慈大悲の観世音さしも草。 さしもかしこき誓の末。一称一念なほ頼 あり。ましてやこの程日を送り。夜を重 ねたる頼の末。などかそのかひなからん と。思ふ心ぞあはれなる。下歌「憐れみ給 へ思ひ子の。行末なにとなりぬらん/\。 上歌「枯れたる木にだにも。/\。花咲く べくはおのづから。いまだ若木のみどり 子に。再びなどか。逢はざらん再びなど か逢はざらん。詞「あら有難や候。少し・睡眠{すいめん} の内に。あらたなる霊夢を蒙りて候ふ は如何に。妾を何時も訪ひ慰むる人の候。 あはれ来り候へかし語らばやと思い候。 狂言シカ%\「。シテ詞「唯今少し睡眠の内に。

新たなる御霊夢を蒙りて候。我が子に逢 はんと思はゞ。三井寺へ参れと新たに御 霊夢を蒙りて候。狂言シカ%\「。シテ詞「あら嬉し と御合はせ候ふものかな。告に任せて三 井寺とやらんへ参り候ふべし。中入「。 ワキ、ワキツレ三人次第「秋も半の暮待ちて。/\。月に 心や急ぐらん。ワキ詞「これは江州園城寺の 住僧にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。 愚僧を頼む由仰せ候ふ間。力なく師弟の 契約をなし申して候。又今夜は八月十五 夜名月にて候ふ程に。幼き人を伴い申し。 皆々講堂の庭に出でて月を眺めばやと存 じ候。四人上歌「類なき。名を望月の今宵とて。 /\。夕を急ぐ人心。知るも知らぬも諸

共に。雲を厭ふやかねてより。月の名頼 む。日影かな月の名頼む日影かな。 後シテ一声「雪ならば幾度袖を払はまし。花の 吹雪と詠じけん志賀の山越うち過ぎて。 眺の末は湖の。鳰照る比叡の山高み。上 見ぬ鷲の御山とやらんを。今目の前に拝 む事よ。あら有難の御事や。詞「かやうに 心あり顔なれども。我は物に狂ふよなう。 いや我ながら理なり。あの鳥類や畜類 だにも。親子の哀は知るぞかし。まして や人の親として。いとほし悲しと育てつ る。一セイ「子の行方をも白糸の。地「乱心や 狂ふらん。カケリシテ「都の秋を捨てゝ行 かば。地「月見ぬ里に。住みや習へるとさ こそ人の笑はめ。よし花も紅葉も。月も 雪も故郷に。我が子のあるならば。田舎も 住みよかるべしいざ故郷に帰らんいざ故 郷に帰らん。帰ればさゝ波や志賀辛崎の 一つ松。緑子の類ならば。松風に言問は

ん。松風も。今は厭はじ桜咲く。春なら ば花園の。里をも早く杉間吹く。風冷ま しき秋の水の。三井寺に着きにけり三井 寺に早く着きにけり。ワキ「桂は実る三五 の暮。名高き月にあこがれて。庭の木陰 に休らへば。シテ「実に/\今宵は三五夜 中の新月の色。二千里の外の故人の心。 水の面に照る月なみを数ふれば。秋も最 中夜も半。所からさへ面白や。地歌「月は 山。風ぞ時雨に鳰の海。/\。波も粟津 の森見えて。海越しの幽に向ふ影なれど 月はますみの鏡山。山田矢走の渡舟の夜 は通ふ人なくとも。月の誘はゞおのづか ら。船もこがれて出づらん舟人もこがれ 出づらん。狂言シカ%\。 シテ詞「面白の鐘の音やな。我が故郷にて は清見寺の鐘の音こそ常に聞き馴れしに。 是は又さゝ波や。三井の古寺鐘はあれど。 詞「昔に帰る声は聞えず。誠や此鐘は秀郷と

やらんの龍宮より。取りて帰りし鐘なれ ば。龍女が成仏の縁に任せて。妾も鐘を 撞くべきなり。地次第「影はさながら霜夜に て。/\。月にや鐘はさえぬらん。 ワキ詞「やあ/\暫く。狂人の身にて何と て鐘をば撞くぞ急いで退き候へ。シテ詞「夜 〓{新字源:2196ユ}公が楼に登りしも。月に詠ぜし鐘の音 なり許さしめ。ワキ「それは心有る古人の 言葉。狂人の身として鐘撞くべきこと。 思も寄らぬ事にてあるぞとよ。シテ「今宵 の月に鐘撞くこと。狂人とてな厭ひ給ひそ 或る詩に曰く。団々として海〓{新字源:2030 キョウ}を離れ。 冉々として雲衢を出づ。此後句なかりし かば。明月に向かって心を澄まいて。今宵 一輪満てり。清光何れのところにか無からん と。詞「此句を設けて余りの嬉しさに心乱 れ。高楼に登って鐘を撞く。人々如何に と咎めしに。これは詩狂と答ふ。かほど の聖人なりしだに。月には乱るゝ心有り。

鏡ノ段「ましてや拙なき狂女なれば。 地「許し給へや人々よ。煩悩の。夢を覚 ますや。法の声も静かに先初夜の鐘を撞 く時は。シテ「諸行無常と響くなり。地「後 夜の鐘を撞く時は。シテ「是生滅法と響く なり。地「晨朝の響は。シテ「生滅滅已。地「入 相は。シテ「寂滅。地「為楽と響きて菩提の 道の鐘の声。月も数添ひて。百八煩悩の 眠りの。驚く夢の夜の迷も。はや盡きたり や後夜の鐘に。我も五障の雲晴れて。真 如の月の影を眺め居りて明かさん。 地クリ「夫れ長楽の鐘の声は。色の外に盡 きぬ。シテ「また龍池の柳の色は。地「雨の 内に深し。シテサシ「其外こゝにも世々の人。 言葉の林の兼ねて聞く。地「名も高砂の尾 上の鐘。暁かけて秋の霜。曇るか月もこ もりくの初瀬も遠し難波寺。シテ「名所多 き。鐘の音。地「盡きぬや法の声ならん。 クセ「山寺の。春の夕暮来てみれば入相の

鐘に。花ぞ散りける。実に惜めどもなど 夢の春と暮れぬらん。そのほか暁の。 妹背を惜むきぬ%\の。恨を添ふる行方 にも枕の鐘や響くらん。また待つ宵に。 更け行く鐘の声聞けば。明かぬ別の鳥 は。物かはと詠ぜしも。恋路の便の音信 の声と聞くものを。又は老いらくの。寝 覚程ふる古を。今思ひ寝の夢だにも。 涙心のさびしさに。此鐘のつく%\ と。思ひを盡す暁をいつの時にかくらべま し。シテ「月落ち鳥鳴いて。地「霜天に満ち て冷ましく江村の漁火もほのかに半夜の 鐘の響は。客の船にや。通ふらん蓬窓雨 したゞりて馴れし汐路の楫枕。浮寝ぞ変 るこの海は。波風も静かにて。秋の夜す がら。月すむ三井寺の。鐘ぞさやけき。 子詞「如何に申すべき事の候。ワキ詞「何事 にて候ふぞ。子「これなる物狂の国里を問 うて賜はり候へ。ワキ「これは思もよらぬ

ことを承り候ふものかな。さりながら易 き間の事尋ねて参らせうずるにて候。如 何にこれなる狂女。おことの国里は何く の者にてあるぞ。シテ「これは駿河の国清 見が関の者にて候。子「何なう清見が関の 者と申し候ふか。シテ詞「あら不思議や。今 の物仰せられつるは。正しく我が子の千 満殿ごさめれあら珍しや候。ワキ「暫く。是 なる狂女は粗忽なる事を申すものかな。 さればこそ物狂にて候。シテ「なうこれは 物には狂はぬものを。物に狂ふも別故。 逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき。是は正し き我が子にて候。ツレ「さればこそ我が 子と申すが筋なき事と申し候。急いで退 き給へ。子「あら悲しやさのみな御打ち候 ひそ。ワキ「言語道断。早色に出で給ひ て候。此上はまっすぐに御名乗り候へ。 子「今は何をか包むべき。我は駿河の国。 清見が関の者なりしが。人商人の手に渡

り。今此寺に在りながら。母上我を尋ね 給ひて。かやうに狂ひ出で給ふとは。夢 にも我は知らぬなり。シテ「又妾も物に狂 ふ事。あの兒に別れし故なれば。たまた ま逢ひ見る嬉しさのまゝ。やがて母よと 名のる事。我が子の面伏なれど。子故に迷 ふ親の身は。恥も人目も思はれず。 ロンギ地「あら痛はしの御事や。よそ目も 時によるものを逢ふを喜び給ふべし。シテ 「嬉しながらも衰ふる。姿はさすがはづ かしの。漏りて余れる涙かな。地「実に逢

ひ難き親と子の。縁は盡きせぬ契とて。 シテ「日こそ多きに今宵しも。地「此三井寺 に廻り来て。シテ「親子に逢ふは。地「何故 ぞ。此鐘の声立てゝ物狂のあるぞとて御 咎ありしゆゑなれば。常の契には。別の 鐘と厭ひしに。親子のための契には。 鐘故に逢ふ夜なり嬉しき。鐘の声かな。 キリ地「かくて伴ひ立ち帰り。/\。親子 の契盡きせずも。富貴の家となりにけ り。実に有難き孝行の。威徳ぞめでたか りける威徳ぞ。めでたかりける。