岩戸山の僧 老女 桧垣嫗の霊

ワキ詞「これは肥後の国岩戸と申す山に居 住の僧にて候。さても此岩戸の観世音は。 霊験殊勝の御事なれば。暫く参籠し処の 致景を見るに。南西は海雲漫々として万 古心の内なり。人稀にして慰多く。致景

あつて郷里を去る。誠に住むべき霊地と と思ひて。三年が間は居住仕つて候。詞「こ こに又百にも及ぶらんとおぼしき老女。 毎日閼伽の水を汲みて来り候。今日も来 りて候はゞ。いかなる者ぞと名を尋ねば

やと思ひ候。 シテ次第「影白河の水汲めば。/\。月も袂 や濡らすらん。サシ「それ籠鳥は雲を恋 ひ。帰雁は友をしのぶ。人間もまたこれ同 じ。貧家には親知少なく。賎しきには故 人疎し。老悴衰へ形もなく。露命きはま つて霜葉に似たり。下歌「流るゝ水のあは れ世のその理を汲みて知る。上歌「こゝは 処も白河の。/\。水さへ深き其罪を。浮 びやすると捨人に。値遇を運ぶ足引の。 山下庵に着きにけり。山下庵に着きにけ り。詞「いつもの如く今日もまた御水あげ て参りて候。ワキ「毎日老女の歩返す%\ も痛はしうこそ候へ。シテ「せめてはか やうの事にてこそ。少しの罪をも遁るべ けれ。亡からん跡を。弔ひ給ひ候へ。 詞「明けなば又参り候ふべし御暇申し候 はん。ワキ「暫く。御身の名を名乗り給 へ。シテ「何と名を名乗れと候ふや。ワキ「な

か/\の事。シテ「これは思もよらぬ仰か な。かの後撰集の歌に。年ふれば我が黒 髪も白河の。詞「みつはぐむまで老いにけ るかなと。詠みしもわらはが歌なり。昔筑 前の太宰府に。庵に桧垣しつらひて住み し白拍子。後には衰へて此白河の辺に住 みしなり。ワキ「実にさる事を聞きしなり。 その白河の庵のあたりを。藤原の興範通 りし時。シテ「水やあると乞はせ給ひし程 に。その水汲みて参らするとて。ワキ「みづ はくむとは。シテ「よみしなり。地「そもみ づはくむと申すは。/\。唯白河の水に はなし。老いて屈める姿をばみつはぐむ と申すなり。そのしるしをも見給はゞ。か の白河の辺にて。我が跡弔ひてたび給へ と夕まぐれして。失せにけり夕まぐれし て失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては古の桧垣の女仮に現れ。我 に言葉をかはしけるぞや。一つは末世の

奇特ぞと。思ひながらも尋ね行けば。 歌「不思議や早く日も暮れて。/\。河霧 深く立ちこもる。陰に庵の燈の。ほの かに見ゆる。不思議さよほのかに見ゆる 不思議さよ。 後シテ「あら有難の弔やな。/\。風緑野 に収つて煙条直し。雲岸頭に定まつて月 桂円なり。朝に紅顔あつて。世路に楽 むといへども。地「夕には白骨となつて郊 原に朽ちぬ。シテ「有為の有様。地「無常の まこと。シテ「誰か生死の理を論ぜざる。 地「いつを限る習ぞや。老少といつぱ分 別なし。変るを以て期とせり誰か必滅を。 期せざらん誰かはこれを期せざらん。 ワキ「不思議やな声を聞けばありつる人な り。同じくは姿を現し給ふべし。御跡 とひて参らせん。シテ「さらば姿を現し て。御僧の御法を受くべきなり。人にな 現し給ひそとよ。ワキ「なか/\に人に

現す事あるまじ。早々姿を見え給へ。 シテ「涙曇りの顔ばせは。それとも見えぬ 衰を。誰白河のみつはぐむ。老の姿ぞ 恥かしき。ワキ「あら痛はしの御有様やな。 今も執心の水を汲み。輪廻の姿見え給ふ ぞや。早々浮び給へ。シテ詞「我古は舞女 の誉世に勝れ。その罪深き故により。今も 苦をみつ瀬河に。熱鉄の桶を荷ひ。猛 火の釣瓶を提げて此水を汲む。其水湯と なつて我が身を焼く事隙もなけれども。 詞「此程は御僧の値遇に引かれて。釣瓶は あれども猛火はなし。ワキ「さらば因果の 水を汲み。其執心を振り捨てゝ。とく/\ 浮び給ふべし。シテ詞「いで/\さらば御 僧のため。このかけ水を汲み乾さば。罪 もや浅くなるべきと。ワキ「思も深き小夜 衣の。袂の露の玉だすき。シテ「影白河の 月の夜に。ワキ「底澄む水を。シテ「いざ汲 まん。地次第「釣瓶の水に影落ちて。袂を月

や上るらん。 地クリ「それ残星の鼎には北渓の水を汲み。 後夜の炉には南嶺の。柴を焚く。シテサシ「そ れ氷は水より出でて水よりも寒く。地「青 き事藍より出でて藍より深し。もとの憂 き身の報ならば。今の苦去りもせで。 シテ「いや増さりぬる思の色。地「紅の涙 に身を焦がす。クセ「釣瓶の懸縄繰り返し 憂き古も。紅花の春のあした黄葉の秋の。 夕暮も一日の夢と早なりぬ。紅顔の粧 舞女のほまれもいとせめて。さも美しき 紅顔の。翡翠のかづら花しをれ。桂の眉 も霜降りて。水にうつる面影老衰。影沈 んで。緑に見えし黒髪は土水の藻屑塵芥。 変りける。身の有様ぞ悲しき。実にや ありし世を。思ひ出づればなつかしや。 其白河の波かけし。シテ「藤原の興範の。 地「そのいにしへの白拍子いま一節とあり しかば。昔の花の袖今更色も麻衣。短き袖

を返し得ぬ心ぞつらき陸奥の。けふの細 布胸合はず。何とか白拍子その面影のあ るべき。よし/\それとても。昔手馴れ し舞なれば。舞はでも今は叶ふまじと。 シテ「興範しきりに宣へば。地「浅ましなが ら麻の袖。露うち払ひ舞ひ出す。シテ「桧垣 の女の。地「身の果を。 序ノ舞「。 シテ「水掬ぶ。釣瓶の縄の釣瓶の縄の。繰 り返し。地「昔に帰れ白河の波。白河の波 白河の。シテ「水のあはれを知る故に。こ れまで現れ出でたるなり。地「運ぶ芦田鶴 の。ねをこそ絶ゆれ浮草の。水は運びて 参らする罪を浮べてたび給へ罪を浮べて たび給へ。