大納言行家 小野小町

ワキ詞「これは陽成院に仕へ奉る新大納言 行家にて候。扨も我が君敷島の道に御心 を懸けられ。普く歌を撰ぜられ候へど も。叡慮に叶ふ歌なし。こゝに出羽の国 小野の良実が娘に小野の小町。彼はなら びなき歌の上手にて候ふが。今は百年の

姥となつて。関寺辺に在る由聞し召し及 ばれ。帝より御憐の御歌を下され候。そ の返歌により。重ねて題を下すべきとの 宣旨に任せ。唯今関寺辺小野の小町が方 へと急ぎ候。 シテ一セイ「身は一人。我は誰をか松坂や。四の

宮河原四つの辻。いつ又六つの。巷なら ん。サシ「むかしは芙蓉の花たりし身なれ ども。今は藜〓{大漢和32248:でう}の草となる。顔ばせは憔 悴と衰へ。膚は凍梨の梨の如し。杖つく ならでは力もなし。人を恨み身をかこ ち。泣いつ笑うつやすからねば。物狂と 人は言ふ。歌「さりとては。捨てぬ命の身 に添ひて。/\。面影につくも髪。かゝ らざりせばかゝらじと。昔を恋ふる忍寐 の。夢は寐覚の長き夜を。飽きてはてた りな我が心/\。 ワキ詞「いかにこれなるは小町にてあるか。 シテ「見奉れば雲の上人にてましますか。 小町と承り候ふかや何事にて候ふぞ。 ワキ「され此程はいづくを住家と定めける ぞ。シテ「誰留むるとはなけれども。唯関 寺辺に日数を送り候。ワキ「実に/\関寺 は。さすがに都遠からで。閑居には面白 き処なり。シテ「前には牛馬の通路あつて。

貴きも行き賎しきも過ぐ。ワキ「後には霊 験の山高うして。シテ「しかも道もなく。 ワキ「春は。シテ「春霞。地歌「立出で見れば 深山辺の。/\。梢にかゝる白雲は。花 かと見えて面白や。松風も匂ひ。枕に花 散りて。それとばかりに白雲の色香おも しろきけしきかな。北に出づれば湖の志 賀辛崎の一つ松は。身の類なるものを。 東に向へばありがたや。石山の観世音瀬 田の長橋は狂人の。つれなき命のかゝる ためしなるべし。 シテ詞「かくて都の恋しき時は。柴の庵に暫 し留むべき友もなければ。便梨の杖にす がり。都路に出でてものを乞ふ。詞「乞ひ 得ぬ時は涙の関寺に帰り候。ワキ「いかに 小町。さても今も歌をよみ給ふべきか。 シテ「我いにしへ百家仙洞の交たりし時こ そ。事によそへて歌をもよみしが。今は 花薄穂に出で初めて。霜のかゝれる有様

にて。浮世にながらふるばかりにて候。 ワキ「実に尤も道理なり。帝より御憐の御 歌を下されて候。これ/\見候へ。シテ「何 と帝より御憐の御歌を下されたると候 ふや。あらありがたや候。老眼と申し文 字もさだかに見え分かず候。それにて遊 ばされ候へ。ワキ「さらば聞き候へ。シテ「い かにも高らかに遊ばされ候へ。ワキ「雲の 上は。シテ「雲の上は。ワキ「雲の上は。あ りし昔にかはらねど。見し玉だれの。内 やゆかしき。シテ詞「あら面白の御歌や候。 悲しやな古き流を汲んで。水上を正すと すれど歌よむべしとも思はれず。詞「又申 さぬ時は恐なり。所詮この返歌を唯一字 にて申さう。ワキ詞「不思議の事を申す者か な。それ歌は三十一字を連ねてだに。心 の足らぬ歌もあるに。一字の返歌と申す 事。これも狂気の故やらん。シテ詞「いやぞ といふ文字こそ返歌なれ。ワキ「ぞといふ

文字とはさていかに。シテ「さらば帝の御 歌を。詠吟せさせ給ふべし。ワキ「不審な がらも指し上げて。雲の上はありし昔に かはらねど。見し玉だれの。内やゆかし き。シテ詞「さればこそ内やゆかしきを引き のけて。内ぞゆかしきとよむ時は。小町が よみたる返歌なり。ワキ「さて古もかゝる ためしのあるやらん。シテ「なう鸚鵡返と いふことは。地歌「この歌の様を申すなり。 帝の御歌を。ばひ参らせてよむ時は天の 恐もいかならん。和歌の道ならば神もゆ るしおはしませ。貴からずして。高位 に交はるといふこと。たゞ和歌の徳とか や/\。 地クリ「それ歌の様をたづぬるに。長歌短歌 旋頭歌。折句誹諧混本歌鸚鵡返。廻文歌 なり。シテサシ「なかんづく鸚鵡返といふこ と。唐土に一つの鳥あり。地「その名を鸚 鵡といへり。人のいふ言葉を受けて。即ち

おのが囀とす。何ぞといへば何ぞと答 ふ。鸚鵡の鳥の如くに。歌の返歌も。か くの如くなれば。鸚鵡がへしとは申すな り。クセ「実にや歌の様。語るにつけ古の なほ思はるゝはかなさよ。されば来し方 の。代々の集の歌人の。その多くある中 に。今の小町は妙なる花の色好み。歌の 様さへ。女にて唯弱々とよむとこそ家々 の。書伝にも記し置き給へり。シテ「和歌 の六義を尋ねしにも。地「小町が歌をこそ 唯事歌のためしに。引くのみか我ながら。 美人の形も世に勝れ。余情の花と作られ。 桃花雨を帯び。柳髪風にたをやかなり。 紫笋はなほ動きほこり梨花は名のみなりし かど。今憔悴と落ちぶれて。身体疲瘁す る小町ぞ。あはれなりける。 ワキ詞「いかに小町。業平玉津島にての法楽 の舞をまなび候へ。シテ詞「さても業平玉津 島に参り給ふと聞えしかば。我も同じく

参らんと。都をばまだ夜をこめて稲荷 山。葛葉の里も浦近く。和歌吹上にさしか かり。地「玉津島に参りつゝ。/\。業平 の舞の袖。思ひ廻らす信夫摺木賊色の狩 衣に。大紋の袴の稜を取り。風折烏帽子 召されつゝ。シテ「和光の光玉津島。地「廻 らす袖や。波がへり。序ノ舞「。シテ「和歌の浦 に。汐満ち来れば。かたを浪の。地「芦辺 をさして。田鶴鳴き渡る鳴き渡る。シテ「立つ 名もよしなや忍音の。地「立つ名もよし

なや忍音の。月には愛でじ。シテ「これぞ この。地「積れば人の。シテ「老となるもの を。地「かほどに早き光の陰の。時人を待 たぬ。習とは白波の。シテ「あら恋しの昔 やな。地「かくてこの日も暮れて行くまゝ に。さらばと云ひて。行家都に帰りけれ ば。シテ「小町も今は。これまでなりと。 地「杖にすがりてよろ/\と。立ち別れ行 く袖の涙。立ち別れ行く袖の涙も関寺の。 柴の菴に。帰りけり。