万里小路中納言 官人 供奉 建礼門院 阿波内侍 大納言局 後白河法皇

官人詞「これは後白河院に仕へ奉る臣下な り。扨も此度先帝二位殿を始め奉り。平家 の一門長門の国早鞆の沖にして。ことご とく果て給ひて候。女院も御身を投げさ せ給ひ候ふを取り上げ奉り。かひなき御 命たすかりおはしまし候。三河の守範頼 九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。 三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。 さるほどに女院は都にうつらせ給ふべか りしを。先帝安徳天皇の御菩提。ならび に二位殿の御跡御弔のため。大原の寂 光院に浮世をいとひ御座候ふを。法皇御 幸をなされ。御訪あるべきとの勅諚 にて候ふ間。御幸の山路をも申しつけば やと存じ候。いかに誰かある。大原へ御 幸あるべきなれば。行幸の道をもつくり その清を仕り候へ。 シテサシ「山里はもののさびしき事こそあ れ。世の憂きよりは中々に。シテ、内侍、局三人「住

みよかりける柴の枢。都の方の音信は。 間遠に結へる笆垣や憂き節繁き竹柱。立 居につけて物思へど。人目なきこそ安か りけれ。下歌「折々に心なけれど訪ふもの は。上歌「賎が妻木の斧の音。/\。梢の 嵐猿の声。これらの 音ならでは。正木の かづら青つゞら来る 人稀になりはてゝ。 草顔淵が巷に。繁き 思の行方とて。雨原 憲が枢とも湿ふ袖 の。涙かなうるほふ 袖の涙かな。 シテ詞「いかに大納言 の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。 局詞「わらはも御供申し。妻木蕨を折り供 御にそなへ申し候ふべし。シテ「譬へは便 なきことなれども。悉達太子は浄飯王の

都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。菜摘 み水汲み薪。地「とり%\様々に難行し仙 人に仕へさせ給ひて。終に成道なるとか や。我も仏の為なれば。御花筐取り%\ なほ山深く入り給ふなほ山深く入り給 ふ。中入間「。 ワキ、ワキツレ一セイ「九重の花の名残を尋ねてや。青 葉を慕ふ。山路かな。次第「分けゆく露も ふかみ草。/\。大原の御幸急がん。

ワキ詞「行幸をはやめ申し候ふ間。大原に入 御候。かくて大原に行幸なつて。寂光 院の有様を見わたせば。露むすぶ庭の夏 草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。池 の浮草波にゆられて。錦を曝すかと疑は る。岸の山吹咲き乱れ。八重立つ雲の絶 間より。山時鳥の一声も。君の御幸を。 待ち顔なり。法皇「法皇池の汀を叡覧あつ て。池水に。汀の桜ちりしきて。波の花 こそ。盛なりけり。地歌「旧りにける。岩 のひまより落ちくる。/\。水の音さへ よしありて。緑蘿の垣翠黛の山。絵にか くとも。筆にも及びがたし。一宇の御堂 あり。甍破れては霧不断の香を焼き。〓{新字源2799:とぼそ} 落ちては月もまた。常住の灯をかゝぐ とはかゝる所かものすごやかゝる所かも のすごや。 ワキ詞「これなるこそ女院の御庵室にてあ りげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。藜〓{大漢和32248:でう}

深く鎖せり。あら物すごの気色やな。 詞「いかにこの庵室の内へ案内申し候。 内侍詞「誰にてわたり候ふぞ。ワキ「これは 万里の小路の中納言にて候。内侍「それは さて人目まれなる山中へは。何とて御わ たり候ふぞ。ワキ「さん候女院の御住居御 訪のために。法皇これまで御幸にて候。 内侍「女院は上の山へ花つみに御いでに て。今は御留守にて候。ワキ「御幸のよし 申して候へば。女院は上の山へ花つみに 御いでにて。今は御留守のよし候。暫く この処に御座をなされ。御かへりを御待 あらうずるにて候。 法皇「やあいかにあの尼前。汝はいかなる 者ぞ。内侍「げに/\御見忘は御ことわ り。これは信西が娘。阿波の内侍がなれ る果にてさぶらふ。かくあさましき姿な がら。明日をも知らぬこの身なれば。恨 とは更に思はずさぶらふ。法皇詞「女院はい

づくに御渡り候ふぞ。阿波内侍「上の山へ花 つみに御いでにて候。法皇「さて御供には。 内侍「大納言の局。今少し待たせおはしま し候へ。やがて御帰にて候ふべし。 サシシテ「昨日もすぎ今日もむなしく暮れ なんとす。明日をも知らぬ此身ながら。 唯先帝の御面影。忘るゝ隙はよもあら じ。極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極 楽。主上を始め奉り。二位殿一門の人々 成等正覚。南無阿弥陀仏。詞「や。庵室 のあたりに人音の聞え候。大納言局「暫くこ れに御休み候へ。 内侍「唯今こそあの岨づたひを女院の御帰 にて候。法皇「さていづれが女院。大納言 の局はいづれぞ。内侍「花筐臂に懸けさせ 給ふは。女院にてわたらせ給ふ。妻木に 蕨折りそへたるは。大納言の局なり。 詞「いかに法皇の御幸にて候。シテ「なか なかになほ妄執の閻浮の身を。忘れもや

らでうき名をまた漏せば漏るゝ涙の色。 袖の気色もつゝましや。地下歌「とは思へど も法の人同じ道にと頼むなり。上歌「一念 の窓の前。一念の窓の前に。摂取の光明 を期しつゝ十念の柴の枢には。聖衆の来 迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。 古に帰るかとなほ思出の涙かな。げに や君こゝに叡慮のめぐみ末かけて。あは れもさぞな大原や。芹生の里の細道朧の 清水月ならで。御影や今に残るらん。 ロンギ地「さてや御幸のをりしもは。いかな る時節なるらん。シテ「春過ぎ夏もはや。 北祭のをりなれば。青葉にまじる夏木立 春の名残ぞをしまるゝ。地「遠山にかゝる 白雲は。シテ「散りにし花のかたみかや。 地「夏草のしげみが原のそことなく。分け 入り給ふ道の末。シテ「こゝとてや。/\。 げに寂光の静かなる。光の陰を惜めた だ。地「光の影も明らけき。玉松が枝に咲

き添ふや。シテ「池の藤波夏かけて。地「こ れも御幸を。シテ「待ちがほに。地「青葉が くれの遅桜初花よりもめづらかに。なか なか様かはる有様をあはれと。叡慮にか けまくも。かたじけなしやこの御幸柴の 枢のしばしがほどもあるべき住居なるべ しや。あるべき住居なるべし。 シテ「思はずも。深山の奥の。住まひして。 雲居の月をよそに見んとは。かやうに思 ひ出でしに。此山里までの御幸。かへす がへすも有難うこそ候へ。 法皇詞「さいつ頃ある人の申せしは。女院は 六道の有様まさに御覧じけるとかや。仏 菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審に こそ候へ。シテ「勅諚はさる御事なれど も。つら/\我が身を案じ見るに。クリ「そ れ身を観ずれば岸の額に根を。離れたる 草。地「命を論ずれば、江のほとりに繋が ざる舟。シテサシ「されば天上の楽も。身

に白露の玉かづら。地「ながらへ果てぬ年 月も。つひに五衰のおとろへの。シテ「消 えもやられぬ。命のうちに。地「六道のち またに。迷ひしなり。クセ「まづ一門。西海 の波に浮き沈み。よるべも知られぬ船の 中。海に臨めども。潮なれば飲水せず。 餓鬼道の如くなり。又ある時は。汀の波 の荒磯に。打ちかへすかの心地して船こ ぞりつゝ泣き叫ぶ。声は叫喚の罪人もか くやあさましや。シテ「陸の争ある時は。 地「これぞ誠に目の前の。修羅道の戦あら 恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。畜 生道の有様を。見聞くも同じ人道の。苦 となりはつる憂き身の果てぞ悲しき。 法皇詞「げに有難き事どもかな。先帝の御最 期の有様。何とか渡り候ひつる御物語り 候へ。シテ語「恥かしながら語つて聞かせ申 し候ふべし。其時の有様申すにつけて恨 めしや。長門の国早鞆とやらんにて。筑

紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひし に。緒方の三郎が心がはりせしほどに。 薩摩潟へや落さんと申しゝをりふし。上 り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。 能登の守教経は。安芸の太郎兄弟を左右 の脇に挟み。最期の供せよとて海中に飛 んで入る。新中納言知盛は。詞「沖なる船 の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。乳 母子の家長が弓と弓とを取りかはし。其 まゝ海に入りにけり。其時二位殿鈍色の 二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。我が身 は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。 主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を 取り舷に臨む。いづくへ行くぞと勅諚 ありしに。此国と申すに逆臣多く。かく あさましき処なり。極楽世界と申して。 めでたき所の此波の下にさむらふなれ ば。御幸なし奉らんと。泣く/\奏し給 へば。さては心得たりとて。東に向はせ

給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。 地「又。十念の御為に西に向はせおはしま し。シテ「今ぞ知る。地「御裳濯川の流には。 波の底にも都ありとはと。これを最期の 御製にて。千尋の底に入り給ふ自も。つ づいて沈みしを。源氏の武士とりあげて かひなき命ながらへ。二度。龍顔に逢ひ奉

り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。 地「いつまでも御名残はいかで尽きぬべ き。はや還幸とすゝむれば。/\。御輿 を早め遥々と。寂光院を出で給へば。 シテ「女院は柴の戸に。地「暫しが程は見送 らせ給ひて御庵室に入り給ふ御庵室に入 り給ふ。