帝王 紀貫之 小野小町 大伴黒主 凡河内躬恒 壬生忠岑 官女二人 同従者

ワキ詞「これは大伴の黒主にて候。さても明 日内裏にて御歌合あるべしとて。黒主が あひてには小野の小町を御定め候。小町 と申すは歌の上手にて。更にあひてには かなひがたく候ふ程に。あすの歌を定め て吟ぜぬ事は候ふまじ。かの私宅へ忍び 入り。歌を聞かばやと存じ候。 シテサシアシラヒ出「それ歌の源を尋ぬるに。聖徳太 子は救世の大仙。片岡山の製をろせいに 弘め給ふ。詞「さても明日内裏にて御歌合

あるべきとて。小町があひてに黒主を御 定め候ひて。水辺の草といふ題を賜はり たり。面白や水辺の草といふ題に浮みて 候ふはいかに。蒔かなくに何を種とて浮 草の。波のうね/\生ひ茂るらん。此歌を やがて短冊にうつし候はん。シテ中入「。 ワキ「いかにたゞ今の歌を聞いてあるか。 狂言「さん候承つて候。ワキ「何と聞いてあ るぞ。狂言「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の。 畠のうねをまろびあるくらん。ワキ「いや

さやうにてはなきぞ。道の道たるは常の 道にはあらず。知れるを以て道とす。不 得心なることにて候へども。唯今の歌を万 葉の草子にうつし。帝へ古歌と訴へ申し。 明日の御歌合に勝たばやと存じ候。 貫之、黒主、立衆、次第「めでたき御代の歌合。/\。詠じ て君を仰がん。サシ「時しも頃は卯月半。清 涼殿の御会なれば。花やかにこそ見えた りけれ。貫之「かくて人丸赤人の御詠を懸 け。貫之、黒主、立衆「各々よみたる短冊を。われも われもと取り出し。御詠の前にぞ置き たりける。貫之「さて御前の人々には。 貫之、黒主、立衆「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。 貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。一同「ひだ りみぎりに着座して。貫之「既に詠をぞ始 めける。ほの%\と明石の浦の朝霧に。 島隠れ行く舟をしぞ思ふ。地「げに島隠れ 入る月の。/\。淡路の絵島国なれや。 はじめて歌の遊こそ。心和ぐ道となれ。

その歌人の名所も。皆庭上に並み居つゝ。 君の宣旨を待ち居たり。/\。 王詞「いかに貫之。貫之「御前に候。王「始よ り小町が相手には黒主を定めたり。まづ まづ小町が歌を読み上げ候へ。貫之「畏つ て候。水辺の草。蒔かなくに何を種とて 浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 王「面白とよみたる歌や。此歌に優るはよ もあらじ。皆々詠じ候へ。貫之「畏つて候。 ワキ「暫く候。これは古歌にて候。王「何 と古歌と申すか。ワキ「さん候。王「いかに 小町。何とて古歌をば申すぞ。シテ「恥か しの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。 既に衣通姫此道のすたらん事を歎き。和 歌の浦曲に跡を垂れ給ひ。玉津島の明神 より此方。皆此道をたしなむなり。それ に今の歌を古歌と仰せ候ふは。古今万葉 の勅撰にて候ふか。又は家の集にてある やらん。作者は誰にてましますぞ。委しく

仰せ候へ。ワキ詞「仰の如く其証歌分明なら ではいかでか奏し申すべき。草子は万葉 題は夏。水辺の草とは見えたれども。読人 しらずとかきたれば。作者は誰とも存ぜ ぬなり。シテ「それ万葉は奈良の御宇。撰 者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。 皆わらはが知らぬ歌はさむらはず。万葉 といふ草子に数多の本の候ふかおぼつか なうこそ候へ。ワキ「げに/\それはさる 事なれどもさりながら。御身は衣通姫の 流なれば。憐む歌にて強からねば。古歌を 盗むは道理なり。シテ「さては御事は古の 猿丸太夫のながれ。それは猿猴の名をも つて。我が名をよそに立てんとや。正し くそれは古歌ならず。ワキ「花の蔭行く山 賎の。シテ「その様賎しき身ならねば。何 とて古歌とは見るべきぞ。ワキ「さて詞を たゞさで誤りしは。富士のなるさの大将 や。四病八病三代八部同じ文字。シテ「も

じもかほどの誤は。ワキ「昔も今も。シテ「あ りぬべし。地「不思議や上古も末代も。三 十一字のそのうちに。一字もかはらで 詠みたる歌。これ万葉の歌ならば。和歌 の不思議と思ふべし。さらば証歌をいだ せとの。宣旨度々下りしかば。初は立春 の題なれば。花も尽きぬと引き開く。夏は 涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。 既に読まんとさし上ぐれば。我が身に当 らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。 ましてや小町が心のうち、唯轟きの橋う ち渡りて。危き心は隙もなし。 シテ「恨めしや此道の。大祖柿の本のまう ちぎみも。小町をば捨てはて給ふか恨め しやな。クドキ「此歌古歌なりとて。左右の 大臣其外の。局々の女房たちも。小町ひと りを見給へば。夢に夢見る心地して。さ だかならざる心かな。此草子を取り上げ 見れば。行の次第もしどろにて。文字の

墨つき違ひたり。いかさま小町ひとり詠 ぜしを黒主立ち聞きし。帝へ古歌と訴へ 申さんために。此万葉に入筆したるとお ぼえたり。余りに恥かしうさむらへば。 清き流を掬び上げ。此草子を洗はゞやと 思ひ候。貫之詞「小町はさやうに申せども。 もし又さなき物ならば。青丹衣の風情 たるべし。シテ「とに角に思ひ廻せども。 やるかたもなき悲しさに。地「泣く/\立 つてすご/\と。帰る道すがら。人目さ がなや恥かしや。貫之詞「小町暫く御待ち候 へ。其由奏聞申さうずるにて候。如何に奏 聞申し候。小町申し候ふは。唯今の万葉の 草子をよく/\見候へば。行の次第もし どろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。 草子を洗ひて見たき由申し候。王「げにげ に小町が申す如く。さらば洗ひて見よと 申し候へ。貫之「畏つて候。如何に小町勅 諚にてあるぞ。急いで草子を洗ひ候へ。

シテ「綸言なればうれしくて。落つる涙の 玉だすき。結んで肩にうちかけて。既に 草子を洗はんと。地次第「和歌の浦曲の藻汐 草。/\。波寄せかけて洗はん。 シテ「天の川瀬に洗ひしは。地「秋の七日の 衣なり。シテ「花色衣の袂には。地「梅のに ほひや。まじるらん。ロンギ地「かりがねの。 翅は文字の数なれど。跡さだめねばあら はれず。頴川に耳を洗ひしは。シテ「濁れ る世をすましけり。地「旧台の鬚を洗ひし は。シテ「川原に解くる薄氷。地「春の歌を 洗ひては。霞の袖を解かうよ。シテ「冬の 歌を洗へば/\。地「袂も寒き水鳥の。上 毛の霜に洗はん/\。恋の歌の文字なれ ば。忍ぐさの墨消え。シテ「涙は袖に降り くれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。 地「釈教の歌の数々は。シテ「蓮の糸ぞ乱る る。地「神祇の歌は榊葉の。シテ「庭火に袖ぞ 乾ける。地「時雨にぬれて洗ひしは。シテ「紅

葉の錦なりけり。地「住吉の。/\。久し き松を洗ひては岸に寄する白波をさつと かけて洗はん。洗ひ/\て取り上げて見 れば不思議やこはいかに。数々の其歌の。 作者も題も文字の形も。少しも乱るゝ事 もなく。入筆なれば浮草の。文字は一字 も。残らで消えにけり。ありがたや/\。 出雲住吉玉津島。人丸赤人の御恵かと伏 し拝み。喜びて龍顔に差上げたりや。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。かほどの恥 辱よもあらじ。自害をせんとまかり立つ。 シテ地「なう/\暫く。此身皆以て。其名 ひとりに残るならば。何かは和歌の友 ならん。道を嗜む志。誰もかうこそあるべ けれ。王詞「いかに黒主。ワキ「御前に候。 王「道を嗜む者は誰もかうこそあるべけ れ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。ワキ「こ れ又時の面目なれば。宣旨をいかで背く べき。黒主御前に畏る。

サシ「げに有難きみぎんかな。小町黒主遺 恨なく。小町に舞を奏させよ。おの/\ 立ちより花の打衣。風折烏帽子をきせ申 し。笏拍子をうち座敷を静め。シテ「春来 つては。遍くこれ桃花の水。地「石に障り て遅く来れり。シテ「手まづさへぎる花の 一枝。地「もゝ色の絹や。重ぬらん。 シテ「霞たつ。中ノ舞「。ワカ「霞たてば。遠山に

なる。朝ぼらけ。地「日影に見ゆる。松は 千代まで松は千代まで四海の波も。四方 の国々も。民の戸ざしも。さゝぬ御代こ そ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起は。あ らがねの土にして。素盞鳴尊の。守り給 へる神国なれば。花の都の春も長閑に。 /\。和歌の道こそ。めでたけれ。