旅僧 松風 村雨

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我い まだ西国を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち 西国行脚と志して候。あら嬉しや急ぎ 候ふ程に。これははや津の国須磨の浦と かや申し候。又これなる磯辺を見れば。

様ありげなる松の候。いかさま謂のなき 事は候ふまじ。このあたりの人に尋ねば やと思ひ候。 ワキ「さては此松は。いにしへ松風村雨と て。二人の海人の旧跡かや。痛はしや其身

は土中に埋もれぬれども。名は残る世の しるしとて。変らぬ色の松一木。緑の秋 を残す事のあはれさよ。詞「かやうに経念 仏してとぶらひ候へば。実に秋の日のな らひとてほどなう暮れて候。あの山本の 里まで程遠く候ふほどに。これなる海人 の塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと 思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。うき世に めぐる。はかなさよ。ツレ二ノ句「波こゝもとや 須磨のうら。二人「月さへぬらす。袂かな。 シテサシ「心づくしの秋風に。海はすこし遠け れども。かの行平の中納言。二人「関吹き 越ゆるとながめたまふ。浦曲の波の夜々 は。実に音近き海人の家。里離れなる通 路の月より外は友もなし。シテ「実にや浮 世の業ながら。殊につたなき海人小舟 の。二人「わたりかねたる夢の世に。住む とや云はんうたかたの。汐汲車よるべな

き。身は蜑人の。袖ともに。思を乾さぬ。 心かな。地下歌「かくばかり経がたく見ゆる 世の中に。うらやましくも。澄む月の出 汐をいざや。汲まうよ出汐をいざや汲ま うよ。上歌「かげはづかしき我が姿。/\。 忍車を引く汐の跡に残れる。溜水いつ まで澄みは果つべき。野中の草の露なら ば。日影に消えも失すべきにこれは磯辺 に寄藻かく。海人の捨草いたづらに朽ち 増りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。 シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま 暮。海人の呼声幽にて。二人「沖にちひさ きいさり舟の。影幽なる月の顔。雁の姿 や友千鳥。野分汐風いづれも実に。かゝ る所の秋なりけり。あら心すごの夜すが らやな。 シテ「いざ/\汐を汲まんとて。汀に満干 の汐衣の。ツレ「袖を結んで肩に掛け。 シテ「汐汲むためとは思へども。ツレ「よし

それとても。シテ「女車。地「寄せては帰 るかたをなみ。/\。芦辺の。田鶴こそは 立ちさわげ四方の嵐も。音添へて夜寒な にと過さん。更け行く月こそさやかなれ。 汲むは影なれや。 焼く塩煙心せよ。 さのみなど海士人 の憂き秋のみを過 さん。松島や小島 の海人の月にだに 影を汲むこそ心あ れ影を汲むこそ心 あれ。 ロンギ地「運ぶは遠き 陸奥のその名や千 賀の塩竈。シテ「賎が塩木を運びしは阿漕 が浦に引く汐。地「その伊勢の。海の二見の 浦二度世にも出でばや。シテ「松の村立か すむ日に汐路や。遠く鳴海潟。地「それは

鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。月こそさは れ芦の屋。シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人 にや。誰も黄楊の櫛。地「さしくる汐を汲 み分けて。見れば月こそ桶にあれ。シテ「こ れにも月の入りたるや。地「うれしやこれ も月あり。シテ「月は一つ。地「影は二つ満 つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともお もはぬ汐路かなや。

ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。宿を借らば やと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ 案内申し候。ツレ詞「誰にて渡り候ふぞ ワキ「これは諸国一見の僧にて候。一夜の 宿を御貸し候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。 主にその由申し候ふべし。いかに申し候。 旅人の御入り候ふが。一夜の御宿と仰せ 候。シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程 に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。ツレ「主 に其由申して候へば。塩屋の内見苦しく 候ふ程に。御宿は叶ふまじき由仰せ候。 ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。 出家の事にて候へば。平に一夜を明かさ せて賜はり候へと重ねて御申し候へ。 ツレ「いや叶ひ候ふまじ。シテ「暫く。月の 夜影に見奉れば世を捨人。よし/\かゝ る海人の家。松の木柱に竹の垣。夜寒さ こそと思へども。芦火にあたりて御泊り あれと申し候へ。ツレ詞「此方へ御入り候

へ。ワキ「あらうれしやさらばかう参らう ずるにて候。 シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれど も。余りに見苦しく候ふ程に。さて否と 申して候。ワキ「御志有難う候。出家と 申し旅といひ。泊りはつべき身ならね ば。何くを宿と定むべき。其上此須磨の 浦に心あらん人は。わざともわびてこそ 住むべけれ。わくらはに問ふ人あらば須 磨の浦に。詞「藻塩たれつゝわぶと答へよ と。行平も詠じ給ひしとなり。又あの磯 辺に一木の松の候ふを。人に尋ねて候へ ば。松風村雨二人の海士の旧跡とかや申 し候ふ程に。逆縁ながら弔ひてこそ通り 候ひつれ。あら不思議や。松風村雨の事 を申して候へば。二人ともに御愁傷候。 これは何と申したる事にて候ふぞ。 シテツレ二人「実にや思内にあれば。色外にあ らはれさぶらふぞや。わくらはに問ふ人

あらばの御物語。余りになつかしう候ひ て。なほ執心の閻浮の涙。ふたゝび袖を ぬらしさぶらふ。ワキ詞「なほ執心の閻浮の 涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。又 わくらはの歌もなつかしいなどと承り 候。かた%\不審に候へば。二人ともに 名を御名告り候へ。二人「恥かしや申さん とすればわくらはに。言問ふ人もなき跡 の。世にしほじみてこりずまの。恨めしか りける心かな。クドキ「此上は何をかさのみ つゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。あの 松蔭の苔の下。亡き跡とはれ参らせつる。 松風村雨二人の女の幽霊これまで来りた り。さても行平三年が程。御つれ%\の御 船あそび。月に心は須磨の浦夜汐を運ぶ 海人乙女に。おとゞひ選ばれ参らせつゝ。 をりにふれたる名なれやとて。松風村雨 召されしより。月にも馴るゝ須磨の海人 の。シテ「塩焼衣。色替へて。二人「〓{カトリ:大漢和27750}の衣

の。空焼なり。シテ「かくて三年も過ぎ行 けば。行平都にのぼりたまひ。ツレ「幾程 なくて世を早う。去り給ひぬと聞きしよ り。シテ「あら恋しやさるにても。又いつ の世の音信を。地「松風も村雨も。袖のみ ぬれてよしなやな。身にも及ばぬ恋をさ へ。須磨の余りに。罪深し跡弔ひてたび 給へ。 地歌「恋草の露も思も乱れつゝ。/\。心 狂気に馴衣の。巳の日の。祓や木綿四手 の。神の助も波の上。あはれに消えし。 憂き身なり。クセ「あはれ古を。思ひ出 づればなつかしや。行平の中納言三年は こゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此 程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し 置き給へども。これを見る度に。弥益の 思草葉末に結ぶ露の間も。忘らればこそ あぢきなや。形見こそ今はあだなれこれ なくは。忘るゝ隙もありなんと。よみし

も理やなほ思こそ深けれ。シテ「宵々に。 脱ぎて我が寝る狩衣。地「かけてぞ頼む同 じ世に。住むかひあらばこそ忘形見もよ しなしと。捨てゝも置かれず取れば面影 に立ち増り。起臥わかで枕より。後より 恋の責め来れば。せんかた涙に伏し沈む 事ぞ悲しき。 シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。乱 るゝ恋の。淵はありけり。あらうれしやあ れに行平の御立ちあるが。松風と召され さむらふぞやいで参らう。ツレ「あさまし やその御心故にこそ。執心の罪にも沈み 給へ。娑婆にての妄執をなほ。忘れ給はぬ ぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御 入りもさむらはぬものを。シテ「うたての 人の言事や。あの松こそは行平よ。たと ひ暫しは別るゝとも。まつとし聞かば帰 りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。 ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。たと

ひ暫しは別るゝとも。待たば来んとの言 の葉を。シテ「こなたは忘れず松風の立ち 帰りこん御音信。ツレ「終にも聞かば村雨 の。袖しばしこそぬるゝとも。シテ「まつ に変らで帰りこば。ツレ「あら頼もしの。 シテ「御歌や。地「立ち別れ。中ノ舞「。シテワカ「いな ばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。今帰 り来ん。それはいなばの遠山松。地「これ はなつかし君こゝに。須磨の浦曲の松の 行平。立ち帰りこば我も木蔭に。いざ立ち 寄りて。磯馴松の。なつかしや。破ノ舞「。 キリ地「松に吹き来る風も狂じて。須磨の 高波はげしき夜すがら。妄執の夢に見ゆ るなり。我が跡弔ひてたび給へ。暇申し て。帰る波の音の。須磨の浦かけて吹く や後の山おろし。関路の鳥も声々に夢も 跡なく夜も明けて村雨と聞きしも今朝見 れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや 残るらん。