大臣 神子

ワキ詞「抑も是は当今に仕へ奉る臣下な り。さても我が君あらたなる霊夢を蒙り 給ひ。千疋の巻絹を三熊野に納め申せと の宣旨に任せ。国々より巻絹を集め候。 さる間都より参るべき巻絹遅なはり候。 参りて候はゞ神前に納めばやと存じ候。 ツレ次第「今を始の旅ごろも。/\。紀の路 にいざや急がん。サシ「都の手ぶりなりと

ても。旅は心の安かるべきか。殊更これ は王土の命。重荷をかくる南の国。聞く だに遠き千里の浜辺。山は苔路のさかし きを。いつかは越えん。旅の道。休らふ 間も無き心かな。下歌「これとても。君の 恵によも洩れじ。上歌「麻裳よい。紀の関 越えて遥々と。/\。山また山をそこと しも。分けつゝ行けばこれぞこの。今ぞ

始めて三熊野の。御山に早く着きにけ り。/\。詞「急ぎ候ふ程に。三熊野に着 きて候。先々音無の天神へ参らばやと思 ひ候。や。冬梅のにほひの聞え候。いづく にか候ふらん。げにこれなる梅にて候。 この梅を見て何となく思ひ連ねて候。南 無天満天神。心中の願を叶へて給はり候 へと。地「神に祈の言の葉を。心の内に手 向けつゝ。急ぎ参りて。先づ君に仕へ申 さん。 ツレ詞「いかに案内申し候。都より巻絹を 持ちて参りて候。ワキ「何とて遅なはりた るぞ。その為に日数を定め参るなかに。 汝一人おろかなる。地上歌「その身の科はの がれじと。/\。やがて縛めあらけなき。 苦を見せて目のあたり。罪の報を知ら せけり/\。 シテ詞「なう/\ その下人をば何とて縛め 給ふぞ。その者はきのふ音無の天神にて。

一首の歌をよみわれに手向けし者なれ ば。納受あれば神慮。少し涼しき三熱の。 苦を免るそれのみか。人倫心なし。詞「 その縄解けとこそ。解けや手櫛のみだれ 髪。地「解けや手櫛の乱れ髪の。神は受けず や御注連の縄の。引き立て解かんとこの 手を見れば。心強くも岩代の松の。何と か結びし。なさけなや。ワキ詞「これはさて 何と申したる御事にて候ふぞ。シテ詞「この 者は音無の天神にて。一首の歌を詠みわ れに手向けし者なれば。とく/\縄を解 き給へ。ワキ「これは不思議なる事を承り 候ふ物かな。かほど賎しき者の歌など詠 むべき事思もよらず。いかさまにも疑 はしき神慮かと存じ候ふよ。シテ「なほも 神慮を偽とや。さあらば彼の者きのふ我 に手向けし言の葉の。上の句をかれに問 ひ給へ。我また下の句をばつゞくべし。 ワキ「この上はとかく申すに及ばず。いか

に汝真に歌を詠みたらば。その上の句を 申すべし。男「今は憚り申すに及ばず。か の音無の山陰に。さも美しき冬梅の。色殊 なりしを何となく。心も染みてかくばか り。音無にかつ咲きそむる梅の花。 シテ「匂はざりせば 誰か知るべきと。 詠みしは疑なきも のを。地「もとより 正直捨方便の誓。 曇らぬ神慮。すぐ なる故にかくばか り。納受あれば今 ははや。疑はせ給はで歌人を。宥させ給 ふべし。または心中に隠し歌も。神の通 力と知るなれば。げに疑のあだ心。打ち 解けこの縄を。とく/\許し給へや。 クリ「それ神は人の敬ふによつて威を増

し。人は神の加護によれり。シテサシ「されば 楽む世に逢ふ事。これ又総持の義によれ り。地「言葉少うして理を含み。三難耳 絶えて寂念閑静の床の上には。眠はるか に眼を去る。クセ「これによつて。本有の 霊光忽ちに照らし自性の月。漸く雲をさ まれり。一首を詠ずれば。よろづの悪念 を遠ざかり。天を得れば清く地を得れば 安しあらかじめ。唯有一実相唯一金剛と

は説かずや。シテ「されば天竺の。シテ「婆羅 門僧正は。行基菩薩の御手を取り。霊山 の。釈迦の御もとに契りて真如朽ちせず 逢ひ見つと詠歌あれば御返歌に。伽毘羅 衛に契りし事のかひありて。文殊の御顔 を。拝むなりと互に。仏々を現すも和歌 の徳にあらずや。又神は出雲八重垣片そぎ の寒き世のためしいはずとも伝へ聞きつ べし。神のしめゆふ糸桜の風の解けとぞ 思はるゝ。 ワキ詞「さあらば祝詞を参らせられ候ひ て。神を上げ申され候へ。シテ「謹上再拝。 そも/\当山は。法性国の巽。金剛山の 霊光。この地に飛んで霊地となり。今の 大峰これなり。地「されば御嶽は金剛界の 曼荼羅。シテ「華蔵世界。熊野は胎蔵界。 地「密厳浄土有難や。神舞「。 地「不思議や祝詞の神子物狂。不思議や祝 詞の神子物狂のさもあらたなる。飛行を

いだして。神がたりするこそ。恐ろしけ れ。シテ「証誠殿は。阿弥陀如来。地「十悪を 導き。シテ「五逆をあはれむ。地「中の御前 は。シテ「薬師如来。地「薬となって。シテ「二 世を助く。地「一万文殊。シテ「三世の覚母 たり。地「十万普賢。シテ「満山護法。地「数

数の神々。かの覡につくも髪の。御幣も 乱れて。空に飛ぶ鳥の。翔り/\て地に 又踊り。数珠を揉み袖を振り。高足下足 の。舞の手をつくし。これまでなりや。神 はあがらせ給ふと云ひ捨つる。声の内よ り狂覚めて又本性にぞ。なりにける。