玄賓僧都 里の女 三輪明神

ワキ詞「これは。和州三輪の山陰に住居す る玄賓と申す沙門にて候。さても此程い づくともなく女性一人毎日樒閼伽の水を 汲みて来り候。今日も来りて候はゞ。い かなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「三輪の山本道もなし。/\。檜原の 奥をたづねん。サシ「実にや老少不定と て。世の中々に身は残り。幾春秋をか送 りけん。あさましや成す事なくて徒らに。 憂き年月を三輪の里に。住居する女にて  

候。詞「又此北山陰に玄賓僧都とて。貴き人 の御入り候ふ程に。いつも樒閼伽の水を 汲みて参らせ候。今日もまた参らばやと 思ひ候。 ワキ「山頭には夜孤輪の月を戴き。洞口に は朝一片の雲を吐く。山田もるそほづの 身こそ悲しけれ。秋はてぬれば。訪ふ人も なし。シテ詞「いかに此庵室のうちへ案内申 し候はん。ワキ「案内申さんとはいつも来 れる人か。シテ「山影門に入つて推せども

出でず。ワキ「月光地に敷いて掃へども又 生ず。二人「鳥声とこしなへにして。老生 と静かなる山居。地下歌「柴の編戸を押し開 き。かくしも尋ね切樒。罪を助けてたび 給へ。上歌「秋寒き窓の内。/\。軒の松 風うちしぐれ。木の葉かきしく庭の面。 門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も苔に。 聞えて静かなる此山住ぞ淋しき。シテ詞「い かに上人に申すべき事の候。秋も夜寒に なり候へば。御衣を一重たまはり候へ。 ワキ詞「易き間の事この衣を参らせ候ふべ し。シテ「あらありがたや候。さらば御暇 申し候はん。ワキ「暫く。さて/\御身は何 くに住む人ぞ。シテ「妾が住家は三輪の里。 山本近き処なり。その上我が庵は。三輪の 山本恋しくはとは詠みたれども。何しに 我をば訪ひ給ふべき。なほも不審に思し 召さば。訪ひ来ませ。地「杉立てる門をし るしにて。尋ね給へと言ひ捨てゝ。かき

消すごとくに失せにけり。中入間「。 ワキ詞「この草庵を立ち出でて。/\。行 けば程なく三輪の里。近きあたりが山陰 の。松はしるしもなかりけり。杉村ばから り立つなる神垣はいづくなるらん神垣は いづくなるらん。 ワキ「不思議やなこれなる杉の二本を見 れば。ありつる女人に与へつる衣の懸か りたるぞや。詞「寄りて見れば衣の褄に金 色の文字すわれり。読みて見れば歌なり。 三つの輪は清く浄きぞ唐衣。くると思ふ な。取ると思はじ。 後シテ「千早振る。神も願のあるゆゑに。 人の値遇に。逢ふぞうれしき。ワキ「不思 議やなこれなる杉の木蔭より。妙なる御 声の聞えさせ給ふぞや。願はくは末世の 衆生の願をかなへ。御姿をまみえおはし ませと。念願深き感涙に。墨の衣を濡ら すぞや。シテ「恥かしながら我が姿。上人

にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。 ワキ「いや罪科は人間にあり。これは妙な る神道の。シテ「衆生済度の方便なるを。 ワキ「暫し迷の。シテ「人心や。地歌「女姿 と三輪の神。/\。〓{チハヤ}掛帯引きかへて。 唯祝子が着すなる。烏帽子狩衣。もすそ の上に掛け。御影あらたに見え給ふかた いけなの御事や。 地クリ「それ神代の昔物語は末代の衆生の ため。済度方便の事業。品々もつて世の 為なり。シテサシ「中にもこの敷島は。人敬つて 神力増す。地「五濁の塵に交はり。しばし 心は足引の大和の国に年久しき夫婦の者 あり。八千代をこめし玉椿。変らぬ色を 頼みけるに。クセ「されどもこの人。夜は 来れども昼見えず。ある夜の睦言に。御 身いかなる故により。かく年月を送る身 の。昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給 はぬはいと不審多き事なり。唯同じくは

とこしなへに。契をこむべしとありしか ば。彼の人答へいふやう。実にも姿は羽 束師の。漏りてよそにや知られなん。今 より後は通ふまじ。契も今宵ばかりなり と。懇に語れば。さすが別の悲しさに。 帰る処を知らんとて。苧環に針をつけ。裳 裾にこれを閉ぢつけて。跡をひかへて慕 ひ行く。シテ「まだ青柳の糸長く。地「結ぶ や早玉の。おのが力にさゝがにの。糸く り返し行く程に。この山本の神垣や。杉の 下枝に留りたり。こはそもあさましや契 りし人の姿か其糸の三わけ残りしより。 三輪のしるしの過ぎし世を語るにつけて 恥かしや。 ロンギ地「実に有難き御相好。聞くにつけ ても法の道なほしも頼む心かな。シテ「と ても神代の物語。くはしくいざや現し彼 の上人を慰めん。地「先は岩戸のさおの初。 隠れし神を出さんとて。八百万の神遊。

是ぞ神楽の始なる。シテ「千早振る。神楽「。 ワカ「天の岩戸を。引き立てゝ。地「神は跡 なく入り給へば。常闇の世と。早なりぬ。 シテ「八百万の神たち。岩戸の前にてこれ を歎き。神楽を奏して舞ひ給へば。地「天 照大神其時に岩戸を少し開き給へば。又 常闇の雲晴れて。日月光り輝けば。人の面

白々と見ゆる。シテ「面白やと神の御声の。 地「妙なる始の。物語。キリ地「思へば伊勢 と三輪の神。/\。一体分身の御事今更 何と岩倉や。その関の戸の夜も明け。か く有難き夢の告。覚むるや名残なるら ん/\。